「百々峰だより」でワクチン問題やウクライナ戦争について精力的に書いている寺島隆吉先生(岐阜大名誉教授)がそのブログで次のような話を紹介しています。

 

百々峰だより

 研究員のひとりから次のようなメールが飛び込んできました。
「皆様のご意見を伺いたいと思い投稿します。
 あさってから共通テストが始まります。それに合わせて、生徒たちにチョコレートのキットカットを全員に配布することが学年会で決められたようです。私は、三年生の副担任なので、直接その会議には出ていませんでした。
 本日、自分のアレンジャーを見たら、キットカットを生徒に配布するので600円を出して下さいと封筒が入っていました。何の提案も説明もなくお金を出せと言われたと思い、不愉快になりました。非民主的すぎると思いました。


 

 3年学年会には副担なので出ていないのですが、学年会のレジュメが私たち副担も、もらっており、そのレジュメの中でお金を集めるということが書いてあったそうです。
 額は少ないにしても(当初は一人1000円ということでした。校長が出してくれたので、600円でよくなったと聞きました)、そのような一片の知らせだけで、お金を出しなさいというのは、私は納得いきません。

 非民主的かつファシズムの温床にしか、私には思えません。これはいいことだから、協力するのが当たり前だろうという発想でいいのでしょうか。そのようにして、ファシズムは広がるのだと私は思ってしまいました。そんなことを思い、そのことを当該学年主任に伝えようか迷い、悶々としているところです。

 このような考え方は、いかにも偏狭で了見の狭い意固地な考え方なのでしょうか。何かアドバイスいただけると嬉しいです。」

 

 このメールをもらったとき、正直言って私は意味が分かりませんでした。というのは私に意味が分からないカタカナ語が眼に飛び込んできて理解不能だったからです。そこで岩田さん(仮名)に携帯電話で次のような短信を送りました。
「恥ずかしい話ですが岩田さんの投稿の全てが分かりません。カタカナ語が氾濫しすぎていて何のことか分かりません。
 まず第一にキットカットが分かりません。第二にアレンジャーというのもわかりません。

(ここで横で聞いていた家内から説明があった)
 いま家内の説明を聞いて少しわかったのですが、お菓子の宣伝に加担するような提案そのものがあまりにもばかばかしくて、今の教師のレベルがこんなにも低下しているのかと驚きました。
 岩田さんには自信を持って、こんな馬鹿馬鹿しい提案に反対してほしいと思います。」

 

 携帯電話の音声入力で私が返事を書いていたら、横で聞いていた家内が「テレビでキットカットというお菓子の宣伝をしている」という説明をしてくれて、それがテレビで宣伝されているお菓子だということを初めて知ったのでした。

 こういうわけで私は先述の「健康三ない運動」を提唱するようになったのですが、そう提唱している手前、私もそれを実践しなければなりません。これを実践してみると私の毎日は実に快適なものになりました。
 というのはテレビ・新聞を見たり読んだりするたびに、その内容に腹を立てたり気分が悪くなったりということがなくなったからです。
 最近は、この「三ない」にもうひとつの「ない」、すなわち「不愉快な人とは話さない」を付け加えて、「健康四ない運動」を提唱し、それを実践しています。そうすれば『コロナ騒ぎ」や「ウクライナ問題」で不毛な論争をして気分が悪くなることもなくなったからです。
 これは定年退職をしたからこそできることであって、現職のひとにはなかなか難しいことかも知れません。それでも「話が分かるひと」「このひとなら腹を割って話せるひと」を職場でひとりだけでも見つかると心が和むのではないでしょうか。
 あるいは教員が学級経営をする場合、「生徒の1割の生徒をつかめば学級は変わる」という私の経験則がありますが、職場でも同じ原則が通用するか試してみるのも面白いかも知れません。
 それはともかくとして、私がテレビを見ているひとなら誰でも知っているはずの「キットカット 」というお菓子を知らなかったのには、以上のような事情がありました。
 そこで先述のような短信を岩田さんに送ったのですが、すると次のような返事が届きました。
 

「寺島先生
 早速、返信いただきありがとうございます。
「キットカット」は安物のチョコレートの商品名です。入試の直前に生徒を励ますために配布する縁起物です。「きっと勝つ」という意味で、このような縁起ものが配布されるのだろうと、想像しています。
 「アレンジャー」は、職員室にあるもので、それぞれの教員の小ボックスあるいは引き出しのようなもので、そこにいつも連絡のプリントや部活動関係の書類とか、学年会の書類・連絡事項が毎日配布され、いつもそれを確認することになっています。
 チョコレートの「キットカット」の配布は、かなり昔から行われていた慣習で、10年以上前にいた**高校でも行われていた記憶があります。
 副担任かつ常勤講師として勤務する私にとっては、このことについての提案を聞いたり意見表明をする機会はありません。このように学年で決まったから、お金を出して下さいという連絡があるだけです。
 本来、お金は個人が判断して使うものであり、このことについても「カンパを1000円程度お願いします」なら受け入れられると思いますが、一方的に通達されて、お金を集めるというのは、乱暴なやり方だと感じ、不快感を持ったというのが、私の気持ちです。
「そんな少額のお金を出し惜しみして、生徒を激励する気がないのか」という声が聞こえてきそうです。しかし、同調圧力どころか、有無を言わせぬ強制であるところがおかしいと思いました。個人にお金を出させるなら、たとえ少額であっても丁寧な提案や説明があってしかるべきだと思いました。
 職場の中で、このような疑問を持つ人がいないようなので、自分の考え方がおかしいのかと不安になり、投稿させていただきました。
 このチョコレートの配布は毎年行われているとのことです。昨年も一昨年も、私は3年の学年団に所属していました。その時、お金を払った記憶がないので、おそらく給料から天引きされている毎月数千程度(3000?円)の学年親睦会費(会食などに使うのがこの会費の目的です)を集めていますので、そこからこのチョコレート代は出されていたと思われます。
 この時は、直接、今回のようにお金を請求されていないので、この件について考える機会さえなかったというのが実情です。
 すみませんでした。お時間をお取りしました。」
 

 これには、「これはかなり昔から行われていた慣習で、10年以上前にいた**高校でも行われていた記憶があります」とも書かれていたので、思わず怒りに駆られてすぐ次のような短信を岩田さんにおくりました。
 

「拝復、岩田さん
 こんなくだらない習慣が10年以上も前からおこなわれていたことに衝撃を受けました。学校がチョコレート企業の売り上げに奉仕して何の意味があるのでしょうか。
 バレンタインデーの習慣も企業戦略の一環ですが、チョコレートを買って誰かにプレゼントするかしないかは個人の自由ですから、まだ許されます。
 しかし、この場合は公立学校が総力をあげて企業の売り上げに奉仕するのですから唖然としてしまいます。
 いずれにしても貴重な情報を有り難うございました。」

(引用終わり)

 

この文を読んでの私の第一印象は、寺島先生にメールを出した高校教師の愚かさです。

キットカットの購入代金を何の相談もなく勝手に決めてよいものかと憤っているのですが、その憤りは当然理解できるものの、そういう問題をいちいち大先生の寺島先生にメールで相談するのは子供じみていると思わないんでしょうか。自分で解決すべき問題で他人に憤りをぶつけるような重大性はありません。

そんなレベルの事柄を「非民主的かつファシズムの温床にしか、私には思えません。」とまで大げさにいうのです。もうホント中学生レベルですね。非民主的はまだわかりますが、これが「ファシズムの温床」なんですか。

なんだか、ちょっとしたことで「差別、差別」と騒ぐ人々と同じような感じがします。

 

先生をしているのに、何で自分でよく考えないんでしょうか。先生っていうのは(よく知りませんが)生徒から様々な問題を持ち込まれることが多いはず。それに対してやはり「先生らしい」回答をする責任があるはずです。そのためには、様々な世間のことを見聞きし、判断していなければ先生なんて務まらないんじゃないでしょうか。

それをこんな程度のことで大先生にメールで不満を訴えるなんて、愚かというしかありません。

 

そして、なぜこの若い高校教師は怒っているのでしょうか。もちろん、キットカットを買う名目で勝手に金を払わされたということが直接的な原因なんでしょう。

しかし、言葉の端々に出ているように「私に相談なく」とか「私を無視して」というのが一番の怒りの元のようです。よくある話ですね。「無視」されたことにいたくプライドが傷つけられたので怒っているのです。

そして本人が気にしている「そんな少額のお金を出し惜しみして、生徒を激励する気がないのか」という声が聞こえてきそうです。」は結構本音が出ていると思います。この先生ケチなんですね。それを知られたくないので、いろいろと御託を並べて金を出さない理由を大先生に納得してもらおうと苦労しているのだと思います。

 

この下らないメールに反応した寺島先生も少し大人げない回答をしています。

「学校がチョコレート企業の売り上げに奉仕して何の意味があるのでしょうか。 バレンタインデーの習慣も企業戦略の一環ですが、チョコレートを買って誰かにプレゼントするかしないかは個人の自由ですから、まだ許されます。しかし、この場合は公立学校が総力をあげて企業の売り上げに奉仕するのですから唖然としてしまいます。」


この意見は全くその通りで、反対する余地がありません。「公立学校が総力をあげて企業の売り上げに奉仕する」なんてどうかしている、というのは全くその通りです。

でも、これってよくある「正論おじさん」の言い分そっくりじゃないでしょうか。

こういう理由で堂々と学校内で反対意見を述べれば、キットカット購入は中止できると思いますよ。

何故って、正論ですからね。

でもそんなことをして何の価値があるんでしょうかねえ。

日本における同調文化を打破したぞー!公立高校の腐敗した封建遺制を潰したぞー!とでも。

神社に公費で玉ぐし奉納は憲法違反だ、みたいですね。

まあ共産党みたいで、嫌な奴だとみんなが敬遠するでしょうね。

 

こんなことを書けば、だから日本というのはいつまでもよくならないんだ、同調圧力に屈してしまうんだ、という声が聞こえてくるようです。

そう私も若い時はこの若い先生や寺島先生の考え方に大賛成でした。

そして、ひとりいきがってあることに反対したこともあります。(無理やり町内会長にさせられそうだったので、拒否して即引っ越ししました!)

 

でも、70もかなり超えた年齢になると、どうでもいいことや長いものに巻かれても影響のないものは巻かれてみる、という考えも捨てたものではないと考えるようになりました。

キットカット、バカバカしいけど共通一次試験に頑張れよ、という意味で生徒に贈るのですよね。

いいじゃないですか。少しぐらい身銭を切っても。昔からの習慣ならなおさらのこと。

こんな語呂合わせやお守りなどみんなバカバカしいものなんですが、しかしそれを言っちゃお終いなんです。

言霊というのがあるように、「思い」を何かに託すというのはバカバカしいことではないはずです。

そういうものをこの若い先生は、ケチな根性と無視されたというプライド否定を「近代的な思想」というオブラートに包んでし返そうとしている。しかし、自分一人では何か心もとないから、大先生に助けを求める。ああ嫌らしい。

「どうでもいいことや長いものに巻かれても影響のないものは巻かれてみる、という考え」

これが処世術だと思います。これも正論おじさんからすれば一番否定すべき考えでしょうが。

 

でも、文化人類学的に言えば、原始社会(キットカットで生徒を応援する高等学校)に向かって、近代の考え方(人権とか差別禁止とか民主主義とかキットカットは迷信だ、公立学校でやることじゃない等々)を持ち込んで偉そうにすることと同じといえるかもしれません。

人類学者は原始社会に向かって偉そうな御託を並べてはいけないし、排除されるに決まっているのですから。

人生の楽園とは長いものには巻かれるということ。巻かれなければ楽園は地獄になるのです。

 

付け火して 煙り喜ぶ 田舎者

と川柳を書いて、村人を5人も惨殺した事件が10年ほど前にありました。

この川柳のようなものの意味は結構難しい。

私は最初

放火してみんな灰になったぞ、火事になって俺は田舎者を懲らしめてうれしい。

田舎者よざまあみろだ。まあ俺もお前たちと同じ田舎者だけどなあ。

という解釈をしていました。でもネットをみると

 

つけびして…(色んな自分に対する中傷の噂話を…)

煙り喜ぶ…(流れた噂話を本気にして馬鹿にして喜び…)

田舎者…(集落の人よ!)

 

なんてものもありました。なるほどなあ、と。

 

どちらが本当かよく分かりませんが、古い習慣、伝統的な考えを持った集団に、別の価値観を持ち込むとまさに地獄を見るのです。どちらがいいとか悪いとかでなく、異人は排除される。

だから、偏屈になる、正論おじさんになるのはそれなりの覚悟、地獄をみる覚悟が必要だし、家族も世間も失ってから偏屈になったほうがいいかもと思った次第でした。

つまり覚悟がなければ、特段の支障がなければ長いものには巻かれた方がいいということですね。