2024年、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
紅白歌合戦は全く面白くなかったので、最初の30分で見るのを止めました。
もう大晦日の国民的行事ではなくなってしまったのですね。
今年の目標は、もう少し読書を真剣にやろう、です。
去年は三大暇つぶし「ブログ書き、読書、映画・ドラマ」のうち、読書が全くおろそかになってしまいました。白内障手術も成功し、読書の障害はなくなったのですが、ブログや映画等に気を取られて、読書意欲が湧いてきませんでした。
去年の読了数はわずか79冊で、月平均6冊程度。その割に街の小さな書店での購入数は60数冊とけっこう買い込んでしまっています。
例 年末に買った本
清沢洌「外政家としての大久保利通」(ちくま学芸文庫)
平川祐弘「ダンテ神曲講義 上」(河出文庫)
若松英輔「小林秀雄 美しい花」(文春文庫)
山口尚「人が人を罰するということ」(ちくま新書)
本屋の立ち読みでは読む気が起きて、買うものの家に帰ると安心してか1ページも開こうとしません。
そのため膨大な積読本がちっとも減りません。
これは我が家の積読本ではありません
ネットに以下のように書かれていました。
…私は東京大学文学部の教授に、本の詰まった研究室の本棚について訊ねてみたことがあります。「これだけの本を全部読んでいるんですよね?」と訊ねる私に、教授は「それは野暮な質問だよ」と笑いました。
「読みきれるか心配して本を買うのをためらうとき、君は大きな損失をしている。買わない時点で読む選択肢は消えるのだし、その本に二度と出会えなくなるかもしれない。だからとりあえず買っておく。手元にあればいつでも読めるし、本は腐ったりしないのだから」
このコラム氏の「これだけの本を全部読んでいるんですよね?」とは余りにも世間知らずです。大学教授の集めた書物を全部読んでいるわけないのは当たり前です。南方熊楠じゃないんだから。
東大教授のいう「読みきれるか心配して本を買うのをためらうとき、君は大きな損失をしている。買わない時点で読む選択肢は消えるのだし、その本に二度と出会えなくなるかもしれない」というのは、私も同感で、そう考えて積読本になると知りながらも買ってしまうのです。(大型書店が近くになくてよかった!)
しかしです。もう老い先短いので、今までならいつかは読んでやる、ということは通用しなくなりました。女房から、この邪魔な本はゴミに出すのも大変、早く何とかしろといつも迫られています。
しかも、読書する気力を失い、映画のような楽で面白い方に流れてしまうので、さらに読書量は減ってしまうのです。
このコラムに次の言葉が。
「積読が多い状況は「まだ本を読んでいない」ということを示すのも確かなのですが、それは裏を返せば「多くを知りたいと思っている」ことの証明でもあります。
ですから、本当に大切なのは「積読を減らす」ことではなく、むしろ「積読を活かす」ことの方なのです。」
「積読は死蔵化させない限り、必ず自分の人生の中で息を吹き返してくれます。
…一瞬で本を読み終えることができない限り、積読は読書家の証でもあります。積読を排除しようとするのではなく、むしろ上手に付き合っていくことで、読書経験をより豊かなものにできると良いですね。」
「積読を活かす」ってどういうこと?「上手に付き合っていく」ってどういうこと?
「もう老い先短いから急がなくっちゃ」という感覚は、昔読んだミヒャエル・エンデの「モモ」のなかの時間泥棒を思い出させます。
その中の掃除人ベッポの言葉。
「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。…そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげてみるんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
「すると楽しくなってくる。これが大事なんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、自分でもわからんし、息もきれてない。」
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます
「これがだいじなんだ。」
(引用終わり)
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。」
つまり、積読本を何とか全部減らすなんてことを考えてはいかんのだな。次の本のこと、次の面白そうな本のこと、次のなるほどそうだったのかと分かることだけ考えるんだ、ということでしょうか。
ただ問題は、
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。」は、「ひょっと気がついたときには、もう死んでいる」可能性が大いにあるということですな。
死んでいたら、「ひょっと気がつく」ことはあり得ないんですがね。
「積読と上手に付き合っていく」というのは今薄々分かってきているんです。
つまり「積読を減らす」ことではなく、積読本の中から楽しい(知的に)本を見つけ出して、のめり込むということだと。それがベッポの言う「たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」ということだと。
積読本あさりが楽しいと感ずる今年の1年にしたいと思った元旦でした。
そうするとブログ書きは少しおろそかになるかもね。ゼロサムだから。