バナナ滑り台と卒業式でのマスクの着用とどんな関係があるんだろうか。

 

まずはバナナ滑り台のことから。

昨日ニュースで、バナナ滑り台から子どもが落下したことを報じていた。

バナナ滑り台なんて初めて聞くが、子供には人気があり、全国の公園に数百台も設置されているらしい。

 

ニュースでは、幼児がこのバナナの分岐のところに股をぶつけたり、勢い余って頭から転落する動画を流していた。ビックリ動画だが、下手すりゃ首の骨折って死ぬよ子供が。

このバナナ滑り台、6歳未満は利用禁止らしいが、それが浸透していないという。

 

バナナ滑り台から子どもが落下、経験者が危険性指摘 自治体も対象年齢の周知に苦慮 1/29(日) 

●落下が発生した横浜市緑区では2022年末に撤去

横浜市緑区では落下する事態を少なくとも2件把握し、危険との声も寄せられたため、撤去を決定。2022年末に撤去し、2023年1月に別のものに取り替えた。

市の担当者によると、2018年に落下する事象が発生。聞き取り調査やメーカーとも話し合った上で、滑り方を示す看板を設置した。

「しかし、再び『子どもが顔から落ちた』など、危険だというご意見が寄せられました。正直、6歳未満の子を公園から排除するのは難しいですし、判断に至りました」

このほか、宮崎県高千穂町では事故自体は起きていないものの、表示不足だとの判断で現在は一時使用禁止としている。

「リコールなどの予定もないようなので、独自で看板などを立てる予定です。未然防止のため、対象年齢の周知と見守り監督を呼びかけます」(担当者)

 

●国「指針はあくまで技術的な基準。撤去は自治体の判断」

国土交通省によると、全治30日以上の重傷事故があった場合は、設置管理者の自治体に報告するよう依頼しているが、ここ1年はないという。危険性があると判断した場合は、同種の遊具がある自治体に情報提供する。

遊具に関する国の基準としては、国交省が2014年に出した「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」がある。これに従って作られたのが前記の自主基準だ。あくまで技術的に適合しているかどうかを示すもので、「危険性をどう捉え、撤去するかどうかは設置管理者(自治体)の判断になる」(国交省)という。

各自治体に取材すると、担当者が悩みながら、それぞれ独自の対策を取っていることがわかる。

2022年に設置したばかりの滋賀県守山市は、園内を6歳以上と6歳未満をエリア分けした上で、付き添いをお願いする張り紙もしている。また、栃木県小山市では「足をそろえて行き先を決めてから滑る」よう呼びかける写真付きの掲示を2ヵ所に設置しているという。

(引用終わり)

 

テレビニュースでは、公園管理者の「6歳以上使用」の表示板をもっと見やすくしたいという声を流していたが、それ以上の追及はなかった。

 

私はこのバナナ滑り台から頭から転落する子どもを見て、こりゃ危険な遊具設備だな、こんなものを使わせて何にも感じないのだろうかと疑問に思った。

新聞報道では、禁止自治体もあれば、対象年齢の周知をしっかりとする自治体もあり、危機意識にバラツキが見られた。

 

その理由は、国の基準にあるらしい。

国が定める指針はあくまで技術的な基準で、撤去は自治体の判断だとのこと。だから、「自治体担当者が悩みながら、それぞれ独自の対策を取っている」とのこと。

 

普通なら私は、国は何しているのか、と批判するところだが、何でもかんでも細かく国が判断するなら自治体はいらない。「自治体担当者が悩みながら、それぞれ独自の対策を取っている」なんて馬鹿じゃないかと言いたくなる。

 

このバナナ滑り台、一目で危険な遊具ということがわかる。6歳以上に使用させるとあるが、年齢に関わらず危険な遊具といえるだろう。

つまり、常識があれば、自治体は悩むことなく、さっさと撤去すればいいだけの話である。というより、こんなものを付けようと発想すること自体が危機意識がないというか頭が悪いというか、どうかしているのである。撤去に悩むのは、自治体担当者が「バカ」ということに過ぎない。

 

国(国土交通省)を批判しなくても危険性は自治体でわかるだろうに、と書いたが、しかし危険性は国でも簡単にわかるはずであり、「全治30日以上の重傷事故があった場合は、設置管理者の自治体に報告する」なんて馬鹿なことを言わずに、自ら危険性をチェックしてバナナ滑り台なんぞ禁止にすべきなんである。

なんで国はこうも無責任になったのか。それは規制緩和の成れの果てなのだ。何でもかんでも規制は悪い、河野太郎のような規制緩和好き大臣が何十年も前から「緩和・緩和」を叫び、原則自由、規制は問題が起きてから、に変えてしまった。

つまり、「規制」には「犠牲」が必要になったのである。

 

例えばバナナ滑り台も誰か幼児が首の骨を折って死なない限り、それも何人も死なない限り規制はしないのである。まさに「規制」には「犠牲」が必要なのである。

いかに規制緩和という考えがいい事づくめでないことがよくわかる。

 

しかし、犠牲が出る前に防止することも簡単なのだ。自治体に設置・撤去の権限があるのだからさっさと撤去すればいいのだ。問題は危険がない、面白い遊具だと決めている自治体の公園は困ったことになるが。その時は親が利用しなければいいだけの話だ。バナナ滑り台を利用しないと罰せられるわけではないのだから。

 

さて、このバナナ滑り台と卒業式でのマスクの着用とどんな関係があるのか。

今日永岡桂子文科相が衆院予算委員会で、今春の卒業式で新コロ対策のマスク着用を巡り、「外すと家庭で決めた人は外しての参加になろうかと思う」との認識を表明したとのこと。

岸田首相の「マスクについては、屋内・屋外を問わず、個人の判断に委ねることを基本とするとともに…」という方針に沿った考えを示したのだろう。

しかし、午後には、政府としては決定していないことを強調したという。ふらつく、ふらつく。

 

テレビでは、街頭インタビューを流し、「はっきり方針を決めてもらわないと困る」という親の声を流していた。それを受けたかどうか知らないが、文科大臣も世間の批判を恐れて、「政府としては決定していない」と曖昧にしてしまったようだ。

 

まあ、「どっちなんだよ、はっきりしろ」と言いたくなりそうだが、私は全くそう思わない。

マスクを着用するかしないかに国がいちいち口出すな、といいたい。そして、国民もそんなマスクの着用を「国に決めてもらわないと困る」なんて馬鹿なことをいうな、といいたい。

国に要求すべきことは、マスクの着用すべきかどうか、ではなく、マスクの着用が感染対策として効き目があったのかの科学的根拠を示せ、ということだ。

 

マスクの着用の科学的根拠を示さずに、国がマスクを「しろ、外せ」と言っても意味がない。しかし、個人の判断に任せるということは、もう感染防止には関係ないといっているのと同じはずだから、「しろ、外せ」についていうのでなく、マスクの着用の科学的根拠の判断だけすればいいだけの話だ。

 

国民はなぜ国にマスクの着用をすべきかすべきでないかの判断を求めるのか。

それは世間体にどう抵抗するかの判断基準を持ちたいからだ。自分の判断では、他人に対抗できないと諦めているか、無責任かどちらかなのである。

 

その悲劇が、プロの将棋指しが、鼻出しマスクをしたというだけで対戦失格となったことだ。ルール違反だと。こうなると国がマスク着用の判断をしないと、反マスクのプロ将棋棋士は常に失格となる。将棋連盟もマスクに関する独自の判断などできずに、国の判断を待つのである。だから悪法も法なり、と無情にも失格を宣するのである。

つまり、くだらないマスクの着用に、日本全体の無責任構造が露呈してしまったのである。

 

バナナ滑り台も撤去するか否か、自治体担当者は自分で判断できずに国に求める。それは責任逃れのためである。公園に遊びに来る親子もバナナ滑り台を利用したいとなると、この親たちに撤去するということに対するクレームに独自では対抗するのが面倒になるのであり、国に決めてもらえれば楽になるのである。

マスク着用も国に決めてもらえれば自分で判断するリスクを負う必要がなくなり、ホッとするのである。

みんな自分で判断したくない、責任なんて取りたくない、こんな日本になってしまったのである。

 

今後は箸の上げ下ろしも国に決めてもらわないといけない。

箸は昔から右手で持つもんだから、そう決めてほしい。

しかし、今やぎっちょが当たり前になり、コマーシャルまでぎっちょで蕎麦やご飯を食べている。

かっこ悪いではないか。なんで文句を言わないのか。

そう、そんなことはもう自由なんである。決めるとか自由とかの問題ではないんである。

それなら、マスク着用も国に決めてもらうなんてやめたらどうなのか、といいたいのだ。