「人新世の資本論」(集英社新書)。斎藤幸平という若いマルクス主義者が書いた資本主義否定本でかなり売れているらしい。新書大賞第1位とか。知らなかった。

 

  

 今頃マルクス・トンデモ本で東大准教授に!

月刊誌willの最新号で、最近保守言論人として活躍している竹内久美子氏の「いまさらマルクス!?下重暁子氏の仰天告白」を立ち読みしていたら、元アナの下重暁子がコロナ禍のモヤモヤを「人新世の資本論」を読んだら腑に落ちたと文芸春秋に書いていたとのことで、初めてこの本を知った。

 

文芸春秋で下重暁子の元ネタをこれも立ち読みしたら、この斎藤幸平著「人新世の資本論」が余程気に入ったらしく、早速大月書店発行のマルクス「資本論」全9巻を買い込んで、全部読了すると宣言していた。

下重暁子って85歳の御婆さんでもう老い先も短いはずなのに、今さら資本論もないもんだし、残り少ない人生をそんな無駄なことをしてどうするのか、と他人事ながら心配する。

この歳になるまで何の勉強もしてこなかったようだ。こんな「人新世の資本論」のようなバカげた本にコロリと参るなんて。しかし、それほどこの本には人を騙す仕掛けがあるんだと思う。

といっても、この本についてほとんど知らないし、下重暁子が「腑に落ちた」と言ったから知っただけで、書店に行ってまたまた立ち読みしただけだ。

こんな本は中身がないに決まっているし、1000円も出してバカ本を読むことほどバカバカしいことはないのだから。

 

で、立ち読みをした。「はじめに」の数ページだけ真面目に読んで、後はパラパラと流して大体分かった。やはり期待通りのアホな本であった。

 

要するに資本主義否定の本なのだが、否定の方法がユニークだから売れたのかもしれない。

まずは地球温暖化CO2説を大々的に肯定して、地球はもうすぐ大変なことになる。エコだ、レジ袋有料化なんぞしていては遅い、SDGs(持続可能な開発目標)なんてやってもだめだ、むしろ有害だ、大衆のアヘンだ、と過激なことを言う。SDGsは止められない気候変動や環境破壊をちょっとエコやってますからと現実から目を背けさせるだけだと。

 

この辺は私も同感だ。むしろ有害だというのは大賛成だ。電気自動車も批判していて、トータルではCO2を増やしているじゃないかと。それも賛成だ。

私はそもそも地球温暖化にCO2は関係ないと思っているから、CO2削減施策自体が意味ない、有害といっているのだが。

 

しかし、この著者斎藤幸平は、そんなことではCO2は減らないから地球温暖化は更に進んで、取り返しつかないことになると言っているのだ。要はもっと過激にCO2削減をしろと。それには経済の仕組みがよくない。資本主義は経済成長がないと成立しない。だから脱経済成長だと。

グレタを礼讃しているが、これが斎藤幸平の正体を表わしている。グレタは地球温暖化で中国を批判しない。(最近はなぜか中国から怒られたようだが)と同じように斎藤幸平もCO2削減を叫びながら、中国については全く言及しない。なぜかわかるだろう。

 

つまり、斎藤幸平は、本当は地球温暖化によるCO2削減なんぞ全く興味がないんだ。というのも、一番大事なというか斎藤幸平が「大変だ、大変だ」と騒ぐ地球温暖化CO2説に全く安易な言及しかしていないということからもわかるではないか。

(昔アル・ゴアが「不都合な真実」というとてもデタラメな不都合なことをいっていたが、それの二番煎じを今さらのように繰り返している。)

 

つまり、もう地球温暖化は完全な真実だ、というところからスタートしている。そんな馬鹿げたことは科学者のやることではない。まず地球温暖化についての賛否の論を詳しく追及すべきだろう。それをやらないで、資本主義だから地球温暖化、だから脱経済成長といっても、土台が嘘だったら、構築した論理は全て崩れるではないか。

 

要するに、斎藤幸平のこの本は資本主義否定、マルクス礼讃、コミュニズム肯定のプロパガンダ本。そして、地球温暖化は大変だというマスコミその他の宣伝に乗せられた情弱者に対して、コミュニズムを売り込もうというトンデモ本だ。

 

エコという発想自体が環境破壊に目を閉ざす免罪符になっていると糾弾するが、おそらく多くの人々は小泉進次郎のバカげたレジ袋有料化なんぞで地球温暖化対策にならないと思っているだろう。そういう人に向けて、そんなことやっていてはダメだ、と言われると思わず膝を乗り出す、この斎藤幸平はそれを狙っている。典型的なアジテーターだ。

 

つまり、社会に例えば自民党政府のやり方がおかしいと思う市民は沢山いる。そういう人々が、ささやかであるがデモを行って意志を示そうとする。しかし、デモくらいでは社会は変わらないなあとも思っている。そこに過激派のリーダーが出てきて、演説する。

「君たちのやっていることは、自己満足にすぎない。免罪符としてのデモにすぎない。社会になんらインパクトも与えていない。そんなことでいいのか。もっとやるべきことがあるんじゃないか」

と扇動する。

 

そして、社会の根本原理を崩さないと良き社会なんてできないんだ、と言われれば、真面目な市民は納得して、そうかこのリーダーの言うことをもっと勉強しなくちゃ、ということになる。

そのように騙されたのが、下重暁子婆さんである。早速マルクスの資本論を買いに行ったのである。

85歳にもなってバカというしかない。自分の頭で考えたことがない女なんだ。

 

この著者斎藤幸平は35歳の若さで優秀なんだと思う。しかし、方向が全く間違っているので、社会に害を与えるだけだ。

フォン・ゼークトの法則といって、軍人を次の4つのタイプに分けたという。

・有能な怠け者(前線指揮官向き)

・有能な働き者(参謀向き)

・無能な怠け者(総司令官または連絡将校向き)

・無能な働き者

この最後のタイプについて

これは処刑するしかない。 理由は働き者ではあるが、無能であるために間違いに気づかず進んで実行していこうとし、さらなる間違いを引き起こすため。」

という解説がついている。

斎藤幸平はまさにこのタイプ。「無能な働き者」に違いない。こういうタイプが一番不要かつ有害なのである。

まずは地球温暖化CO2説の過ちをキチンと勉強してほしいものだ。

 

ネットに著者のインタビュー記事が出ていたので少し引用しておく。

「人新世の『資本論』」著者に聞く

─近年、日本でも豪雨や大型台風の被害が多発し、気候変動の影響が感じられます。しかし、日本人の地球環境への意識は、まだ希薄のように感じます。

 

 先進国に生きている私たちは、豊かな生活を享受しています。コンビニでは24時間モノが売られていて、ファストフード店でいつでも食べることができます。さらに、いつでも何でもインターネットで欲しいモノが安く手に入ります。日本は世界中からモノが集まるという恩恵を受けてきました。これはグローバル化や資本主義の発展が、私たちの生活を豊かにした最大の魅力です。そのため、多くの日本人は気候変動や環境破壊をあまり自分たちに直結しない、途上国の問題と捉えていました。むしろ、自分たちはこの豊かな生活を手放したくないという考えが強かったのではないでしょうか。けれども、この豊かな生活こそが、気候危機を深刻化させています。今後、危機が深まるなかで、誰しもが厳しい現実に目を向けなければならなくなるでしょう。

 そんななか、世界中が脱炭素社会に向けて動き始め、日本も2050年までに脱炭素化を打ち出しています。そして、気候変動対策だけではなく、持続可能で公正な社会を目指すような理念としてSDGsが非常にもてはやされ、一般的に認知されました。

SDGsは一見すると非常にポジティブなものとして捉えがちですが、それに対して、私は警鐘を鳴らす意味で「SDGsは大衆のアヘン」と言っています。その意図は単純で、SDGsが今のような間違った使われ方をすることで、求められている社会の大転換の必要性が見えなくなってしまうことへの危機感です。

SDGs17あるゴールの内のいくつかを恣意的に取り出し、企業がその推進をPRすれば、消費者もマイボトルやマイバッグを持つようになって自己満足感を得られます。しかし、それでは問題は根本的には何も解決せず、むしろ危機は深まるばかりなのです。

(中略)

─そこで、「脱成長コミュニズム」が世界を救うと提唱されています。その概念はどのようなものでしょうか?

 まず、「脱成長」というのは、GDPや経済成長至上主義で見逃され深刻化した事態、問題をもっと重視して、人間と自然が繁栄できるような社会に移行していく考え方です。資本主義というのは、絶えず資本を増やし続け、経済成長を求めていくというシステムです。

ところが、経済成長を求める続けることにより、市場規模を拡大させ、人々に多くの消費を促していく中で、地球の限界を超えるようになりました。簡単に言えば、地球上の限りある資源の中で、年率3%で無限の成長を続けようというのは全く不合理な段階に入っているのです。経済成長を否定しているのではありません。途上国などは経済成長をする必要がありますし、私たちも経済成長によって豊かになり、貧困、飢餓、病気などを乗り越えてきました。しかし、地球環境が脅かされている状況で、これまで通りの経済成長を求める必要はないと考えます。人間と自然が繁栄できるような社会に移行していくことが「脱成長」の理念です。

 もう一つは、「コミュニズム」ですが、これは政治経済の文脈におけるいわゆる共産主義的な意味とは全く関係のないものだと思ってください。(⇒詐欺師が私は詐欺師ではありません、といって誰が信用するだろうか。)

資本主義では絶えざる成長を求めるだけではなく、あらゆるものが商品化され生活に必要なモノさえも一部の企業が独占して利益を追求します。しかし人が生きていくための根源的なモノが商品化されている状況は、間違っているのではないかと私は感じます。生きるために必要な住居、公共交通機関、電気、水、医療、教育、そしてインターネットを入れてもいいと思うのですが、これらは基本的に公共財産(コモン)です。市場任せにするのではなく地方自治体や国がしっかり管理して、無償あるいは廉価で提供していく方がいいと考えます。

 あらゆるものを商品化する新自由主義、それに対して市場の領域を狭めていって「コモン」の領域を増やしていくことが「コモン主義」あり、これを私は「コミュニズム」と提唱しています。その目指すべき社会は、コモンの領域を拡張することで、経済成長にブレーキをかけるような社会、それが「脱成長コミュニズム」の概念になります。

 

── 「脱成長コミュニズム」の社会において、テクノロジーはどのような役割を果たせるのでしょうか?

 

 「脱成長」の言葉から、山村でコミューンのような共同体生活をすると誤解される人もいますが、私の意図はそうではありません。むしろ、現状のテクノロジーを最大限に使っていく可能性もあります。例えば、ICTIoT技術や再生可能エネルギーを活用して、効率化を図っていくことに関しては全く否定していません。(資本主義を否定しながらこういうふうに中途半端なことをいう。)

私が批判しているのは、効率化さえすれば、私たちは現状のライフスタイルを何ら変える必要はないという考え方です。つまり5年に1回車を買い替え、2年ごとにスマートフォンやPCを買い替えるような消費生活を続けることに何の疑問も持たないことです。

 このライフスタイルでは、二酸化炭素の排出量がどれほど減るかも怪しいですし、今まで通りの大量消費を続けていくことになるため「脱成長」と相容れません。効率化によって仮に二酸化炭素排出の減少傾向に効果が少しあったとしても、先進国の生活を支えるためにますます多くの資源が途上国から収奪されていきます。これまで石油だった資源に変わり、他の資源が消費されていくようになります。効率化のためだけのテクノロジーでは、本来のSDGsの理念とも相容れませんし、それは正しい技術の使い方ではありません。今までのライフスタイルに固執する限りで、問題の本質は解決しません。

(後略)

 

若いのに今さらカビの生えたマルクスや共産主義とは余程何かのルサンチマンが溜まっているのだろう。

こんなバカ本が売れるなんて、日本は全く進歩していないな。