東京都小池百合子知事が緊急記者会見し「感染爆発の重大局面だ」と述べ、今週末の不要不急の外出自粛を都民に要請したことで、先週政府専門家会議の発表で弛緩してしまった「武漢テドロスウィルス」(今後私はこのように呼ぶことにする)への危険性について、もう一度引き締まった感がある。

 

埼玉アリーナのk-1強行も小池都知事に「感染爆発の重大局面」という意識を高めたのではないか。

あのk-1の主催者及び6000人以上の観客の無責任行動をみて、こりゃこいつらみんなスプレッダーとなって感染拡大させるにちがいないと首都圏住民は恐怖したに違いない。

だから、小池都知事の外出自粛要請いわば「準非常事態宣言」というものが、大きな反発もなく受け入れられたのだと思われる。

埼玉アリーナのk-1強行がなければ、まだ浮かれっぱなしの桜見物状態のままだっただろう。盛り場や飲み屋は客足が戻っていたというのだから。

 

しかし、今度の土日の2日間の外出自粛では、また前回の二の舞になりはしないか。4月の土日だって「感染爆発の重大局面」となりうる。つまり際限がないのだ。いつまでもやってられないという声が聞こえてきそうだが、止めた途端に「感染爆発の重大局面」となり、ニューヨークやパリ、イタリア、スペインの死の街のような状態が現出するのである。

 

ブラジルのボルソナロ大統領はツイッターに日本で花見に集まった人々の動画を載せ、「これが日本のウイルスだ。自宅待機を要請しても混乱とウイルスが同時に起きるだけだ」と皮肉ったという。

この言葉を聞いて、日本を批判しているのだと思ったが、そうではないらしい。

ボルソナロ大統領は、移動制限などの措置を取っている一部の州知事らに対し、経済を破綻させるとして制限を緩和するよう求めて、日本を例に出したようなのだ。

移動制限してもウイルスは収まらない、そうなら、移動制限せずにウイルスで混乱しても経済を混乱させない方がいいではないか、と開き直ったのだ。

日本は、武漢テドロスウィルスに感染したって、楽しくやっているではないかと。

 

喜んでいいのか。悪いのか、妙な気分にさせられているが、やはりボルソナロ大統領はやけ気味発言であり、日本としては、小池都知事の「準非常事態宣言」に従って、もう少し忍耐すべきだろう。

忍耐しながら、推移を見守るしかない。だから今度の土日の制限ではだめなのだ。そのうち狼が来た、となり、誰も信じなくなってから、本当の狼が来る、それが一番困ることだ。

 

さて、小池都知事の週末の不要不急の外出自粛を要請した会見の直後から都内のスーパーマーケットには、多くの客が訪れ、買い物かごに多くの商品を詰め込む姿が見られたという。

食料がなくなるかもという心配は、それぞれの都民の自主判断だったのかそれともトイレットペーパーの時のようなSNS発信があったからなのか。

 

テレビ局は早速この騒ぎに飛びついてワイドショーやニュースで大きく扱った。行列と空の棚を見せながら、品物はある、在庫は十分ある、みんな落ち着いてといつもの空疎なコメントを並べながら、さあ早くスーパーに行かないと品物が無くなるぜ、とテレビは煽った。

トイレットペーパー騒動の再現である。テレビ局は美味しい動画がほしいから、何度でも繰り返し、買い物客の行列と空の棚を見せ続ける。そして落ち着けと繰り返す。

 

トイレットペーパー不足騒動の時、「トイレットペーパーが無くなるデマ、テレビ局もデマ拡散を煽っているのでは?デマ対策は難しいのだ」(20200229())という記事を書いた。

 

「…国内で流通するトイレットペーパーの98%は国内で生産されており、原材料も国産だから、各メーカーや卸元に在庫はふんだんにあるという。

だから、今後商品は入荷するので、落ち着いて対応してほしいとか冷静な対応が求められるとテレビ局のアナは締めくくるのだ。

 

でもちょっと待ってほしい。品薄とか売り切れの店や商品棚を喜々として映しているのもテレビ局なのである。

「(あるテレビニュース)…トイレットペーパーの棚がガラガラだ。これは28日朝、都内で撮影されたドラッグストアの様子。店の前にできた行列をよく見ると多くの人がトイレットペーパーを手にしている。こうした現象は全国で起きており、熊本市でもすごい数の人の列ができていた。開店した途端、レジにはトイレットペーパーを買い求める客が殺到。中には自転車のカゴに入りきらずハンドルにぶら下げて帰る人の姿も。買い物客:3軒目でこれだけ取れたからラッキーでした。」

 

こんな状態を放映しておいて、しかも「こうした現象は全国で起きており」と解説しながら、冷静な対応が求められるも何もないもんだろう。つまり、テレビ局がデマを結果として煽っているのである。

 こんな光景を見れば、デマとわかっていても、商品が十分あるとわかっていても、皆が買いに走ればやはり店頭から無くなるのである。それは困るということで買いに走るのである。

最初のデマ発信が感染源とすれば、テレビニュースは二次感染源なのである。そんなこと、店で商品が無くなっていることを知らなければ誰も争って買いに行きはしなかったのだから。」

(引用終り)

 

昔、グレゴリー・ベイトソンという精神医学者が「ダブル・バインド」ということを述べていたのを思い出した。統合失調症の原因を説明する理論である。

ネットwikiの解説から。

「生物の間で交わされるメッセージには複数のレベルが存在することをベイトソンは明らかにした。例えば犬が戯れに噛み合うとき、

1.これは「噛むこと」を意味しているというメッセージ

2.これは本気で「噛むこと」ではないという、メッセージについて言及するメタメッセージ

があるというものである。理論化すると、

1.  2人以上の人間の間で

2.  繰り返し経験され

3.  最初に否定的な命令=メッセージが出され

4.  次にそれとは矛盾する第二の否定的な命令=メタメッセージが、異なる水準で出される

5.  そして第三の命令はその矛盾する事態から逃げ出してはならないというものであり

6.  ついにこのような矛盾した形世界が成立しているとして全体をみるようになる

という状態をいう。

わかりやすく喩えると、親が子供に「おいで」と(言語的に)言っておきながら、いざ子供が近寄ってくると逆にどんと突き飛ばしてしまう(非言語的であり、最初の命令とは階層が異なるため、矛盾をそれと気がつきにくい)。

呼ばれてそれを無視すると怒られ、近寄っていっても拒絶される。子は次第にその矛盾から逃げられなくなり疑心暗鬼となり、家庭外に出てもそのような世界であると認識し別の他人に対しても同じように接してしまうようになる。そして以下のような症状が現れるとした。

  • 言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)
  • 言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型)
  • コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)

(引用終り)

 

ちょっと硬い説明なので、別の解説をネットから探しました。(ブログ「モットチャント」)

ダブル・バインドとは、対象者に禁止命令とそれと矛盾するメタ的な禁止命令が繰り返し提示され、対象者がその矛盾した命令から逃れられない状況のことです。

この状況に置かれ続けると人は統合失調症(分裂症)になるというのがベイトソンの主張(仮説)です。

…でも僕らは大抵この矛盾した状況を「我慢する」という選択をして、繰り返し矛盾した禁止命令を受け続けることになります。その結果、うつ病などの統合失調症を発症してしまうワケです。

重要なのは、矛盾した禁止命令があるだけなら何も問題はない、ということです。

「いつ会社を辞めても大丈夫」というような心理状態で仕事をしているなら、どんだけ矛盾が多い状況になっても辞めれば済む話です。

でも真面目に学校や社会のルールを守って生きてきた人はそれができないんですね。

どうしても情が湧いたり、自分がいなくなったあとのことを考えたり、世間体を気にしたりしちゃう。

そういう優しくて真面目な人ほどダブル・バインドにハマりやすいのです

現代の家庭で一番典型的なのは

  • 親の「私の命令に逆らうな」という禁止命令(実際の言葉)
  • 親の「私のようになるな」というメタ的な禁止命令(行動)

というダブルバインドだと思います。こういう矛盾が生まれるのは親が自分にウソをついているからです。本当は自分のやりたいことがあるのに、子供や家庭があるから「我慢して」今の仕事をしている。

だから子供には我慢せずに生きてほしいと思う一方、「私も我慢してるんだからお前も我慢しろ」という考えを押し付けるワケですね。

『精神の生態学』の中でもダブルバインドな家庭の特徴が挙げられているので、紹介しておきましょう。 

  1. そこには、母からの愛を感じて近寄っていくと母が不安から身を引いてしまう、そういう母親をもつ子がいる(中略)

  2. そこには、わが子に対して不安や敵意を持っていると認めることができない母親がいる。(中略)

  3. そこには、母子関係の間に割り込み、矛盾のしがらみにとらえられた子供の支えになるような存在-洞察力のある強い父親など-がいない。

    この状況では

  • 母親の「私から離れてはいけない」(愛している)という禁止命令(実際の言葉)
  • 母親の「私に近づくな」というメタ的な禁止命令(表情や態度)

という2つの矛盾した禁止命令が子供に課せられます。この状況が生まれるのも結局、母親が自分にウソをついているからです。本当は自分は子供を愛していないのに「母親は子供を愛さなきゃいけない」という先入観が彼女にウソをつかせているワケですね。

「強い父親」などがいれば、子供はこの状況(母親)から逃れることができるのですが、そういった逃げ場が用意されないと子供はずっと母親の矛盾した命令を受け続けることになります。

母親に近づけば嫌な顔をされ、母親から離れると「お母さんが嫌いなの?」と言われる。

この状況に「適応」した結果、子供は統合失調症になるのです。

(引用終り)

 

つまり、テレビ局は、スーパーに早くいかないと商品棚が空になるぞ、というメッセージを繰り返し発する。しかし、そうしようとすると、テレビ局は、そういう行動はよくないことです。落ち着いて行動しましょう、と前とは正反対のメッセージを発する。

親に呼ばれてそれを無視すると怒られ、近寄っていっても拒絶される。子は次第にその矛盾から逃げられなくなり疑心暗鬼となる」状況と同じようなことをテレビ局が視聴者に仕掛けているのである。

 

そうするとどうなるか。

もう何も信じられなくなり分裂した症状を起こすということである。

テレビ局は別に視聴者を分裂病にしたいわけではなく、視聴率を取りたい、面白い絵になればいい、みんなが困ったとか大変だとか一喜一憂して、テレビにかじりついてくれればいいと思っているだけである。

 

しかし、こういう買占め現象は今後何度も続き、ここがアメリカその他なら暴動に発展してもおかしくない。日本だってこんな異常な状態が長く続けば、暴動も起きるかもしれない。テレビ局はそんな時でも同じように喜々として映して報じるのだろう。

 

先の「モットチャント」ブログは解決法を示している。

ダブル・バインドへの対処

これはどんな場合も同じで、一刻も早く関係を切ること、です。

会社をやめる、家を出る、恋人と別れるなど、とにかくその関係から逃げてしまえばダブルバインドは解消されます。」

つまり、テレビを見ないことに尽きるのである。朝日新聞を潰すには朝日新聞を購読しないことに尽きるように。

 

 前回のトイレットペーパー騒動の記事では次のようにも書いている。

「…今回言いたいのはテレビ局の態度だ。デマを煽った一端の責任はテレビ局にあることに気付くべきなんだ。

よくドッキリとかバカげた実験とかを見せるバラエティー番組で、とても危険なことを芸人にさせて笑いを取る。そして、テロップ。

「これは危険ですので、絶対に真似しないで下さい」とか「いい子は真似をしないでね」

これが免罪符だと思っているのである。

 危険ならそもそも放映するなよ、といいたい。「いい子は真似をしないでね」とは、テレビ局は悪い子だということを自覚しているのである。

真似するなといいながら、真似をするように煽っているのである。

 トイレットペーパー不足デマ報道も危険な実験のたぐいなのではないか。さんざん映像で買占めシーンを映して、早く来ないと無くなるぞーと煽っておいて、「冷静な対応が求められる」ってか。お前のほうが「冷静な対応」をしろよ。

 ではテレビ局はどういう伝え方をしたらよいのか。デマの事実と品薄になった事実は言葉でなら伝えてもよい。しかもデマの間違い理由を分かりやすく伝えることが大事だ。」

(引用終り)

 

最後のところで、「テレビ局はどういう伝え方をしたらよいのか。デマの事実と品薄になった事実は言葉でなら伝えてもよい。しかもデマの間違い理由を分かりやすく伝えることが大事だ。」なんぞとおとなしめに書いてしまった。

 

今回思うことは、中国のやり方に学ぶことだと。かなり危険な発想ではあるが、テレビ局にはそういわないとだめかもしれない。

それは、情報統制、情報遮断だ。

中国武漢テドロスウィルスは完全に無くなったのである、と中国共産党が決めたのである。

つまり、「いや感染者はまだいる」なんて情報は許さない、なぜなら中国共産党が「ウィルスは根絶された」といっているのだから、それ以外の情報は間違っているので、許されないのである。

 

本当にこんなトンデモ中国なのだが、日本もこの買占め報道では学ぶことがあるとつい感じてしまうのだ。

つまり、商品在庫があって、メーカーも生産し続け、流通もしっかりしているのなら、「買い物客の行列と空の棚」を延々と放映することは、社会を混乱させることになるのだから、放映は禁ずることである。(情報遮断)あるいは、政府がテレビ局に「社会を紊乱させる放映」を禁ずる旨通達し、自主的に従わせることである。(情報統制)

 

もちろんこの日本でこんな強権的なことはできやしない。そんなことは分かっていっているのである。

テレビ局は中国工作員に牛耳られ、捏造、偏見報道なんでもござれであるが、「買い物客の行列と空の棚」を報ずることは、政治的な偏見でしている訳ではない。単に無知と社会的責任を自覚していないアホのやっていることである。だから、こういう馬鹿げたことに対して、もう少しというかもっと大々的に批判しなくてはいけないと思うのである。