河野防衛大臣の「私は雨男…」発言を、報道ステーションでは「緊急速報」として流したとのこと。呆れてものがいえないが、批判する立憲民主の安住国対委員長も「大臣を辞めた方がいい。自衛隊に失礼だ。」と言ったとか。お前が言うな、だ。自衛隊を暴力装置と貶めたのはお前の親分の仙谷由人じゃなかったか。
また、萩生田文科相については「身の丈発言」で辞任を要求している。野党の失言追及で国会を空回りさせるのかとうんざりさせられる。国民は災害対策をどうするかのほうを徹底的に審議してほしいと思っているに違いないのに。
こういう失言ばかりを捉えて、鬼の首を取ったように「大臣の辞任要求」するというのは、まさに野党のバカさ加減と言うか中身のなさと言うか、これこそ野党と言う中身のない「身の丈」を表しているということになろうか。こんなところで野党の「身の丈」の小ささを露呈してどうするのか。
2020年度から始まる大学入学共通テストについてはよく知らない。しかし、英語の民間資格・検定試験を活用するという試験方法自体に危ういものを感じるし、準備不足も懸念されるので、ここは野党の言うとおり延期に賛成だ。
しかし、「身の丈発言」に対する野党の追及理由には首をかしげる。
立民党の福山哲郎は「地方で頑張る学生や経済的に厳しい状況に置かれている学生には看過できない発言だ」と非難したり、共産党の小池晃も「経済条件によって教育を受ける権利が左右されても構わないと言っているのに等しい」とか非難しているそうだが、世の中そういうものだろう。何でも平等にするには、大学全入か無料、無試験にするしかない。これは中国文化大革命のやり方と同じで、教育は崩壊し、国家の基礎は崩れてしまう。
もうそうなると、大学入学共通テストの英語の民間検定試験からドンドン離れていってしまう。貧乏人には不利な制度だというより、そもそもこんな英語の民間検定試験など止めてしまえといえばスッキリするのに。
萩生田文科相の「身の丈発言」は、制度の未整備を突かれた苦し紛れの言い訳だったと思われる。金持ちのほうが有利になる試験制度がそもそも間違いなのだから。
といって、萩生田氏自身が述べた「それを言ったら『あいつ予備校通っててずるいよな』というのと同じだと思うんですよね。」という方向に進めば、全員予備校に通わせろとか予備校へ行くための補助を出せと言うことになって収拾がつかなくなる。
そういう論議を避けるためにも、英語の民間検定試験は廃止にすべきなのだ。
しかし、「身の丈発言」自体は、何も問題がない日本的な処世訓といえるだろう。「身の丈発言」を貧乏人に失礼だとかいう批判は低級すぎる。
少しこの「身の丈に合わせる」「身の丈に合った生活をする」ということを考えてみる。
身の丈に合わせる、というときは、収入もそこそこなのにそれ以上の贅沢をするのはよくない、分相応の生活をすべきとか、上を見るな、下を見よ、とかいう時のことばだ。
しかし、それを政府が言うか!ということだ。処世訓とはそこに諦めが入っている、下手に考えてもロクなことはないと。それをお上が言っちゃあお終(しま)いなんた。
問題にすべきはその「身の丈」が最近ドンドン縮んではいませんか、ということを野党が問題にするならそれなりに議論が発展するのではないか。教育の経済的機会均等なんかの狭い範囲でなく。
哲学者苫野一徳氏が不幸の本質について説明している。(「はじめての哲学的思考」ちくまプリマー新書)
「…ルソーはその著書「エミール」の中で、不幸の本質を次のようにいい表している。すなわち「不幸とは欲望と能力のギャップである。」」
なるほどそういうことか。これを方程式にしてみると
不幸=欲望-能力 (不幸の方程式)
となる。
能力に比べ、欲望が肥大化すると不幸は増大する。逆に欲望と能力が一致すれば、不幸はゼロ。欲望より能力のほうが大きければ、不幸はマイナスつまり幸福になるということだ。
ここでいう能力は努力で何とかなる場合もあり、そうならない場合もある。
不幸を小さく又は幸福になるためには能力を大きくすればいいのだが、普通人にとってはそう簡単に能力を伸ばすことは難しい。
欲望が世間並みで一定とし、能力より大きいとするといつも不幸だ。
そこで庶民は考えた。
能力を「身の丈」と置き換えてみよう。つまり能力はそうそう増大しないのだから、身の丈という感覚が相応しい。
そんな中で、不幸を少なくするにはどうするか。次は欲望の方を動かすしかない。欲望は能力より変化させやすいから。つまり身の丈と同等な欲望又は欲望を小さめにするのだ。そうすれば不幸の度合いは低くなる。
「身の丈に合わせる」とは、能力に応じた欲望にするということだ。
さて、今日本政府の経済政策はどういうものか。緊縮政策であり増税政策である。その結果実質賃金下がるばかりだ。不幸の方程式における一般庶民の「能力」つまり所得は低下するばかりだ。しかし、庶民は不幸の量を増大させたくないから、「欲望」のほうを抑制してバランスを取る。
「欲望」の抑制とは、需要の抑制だ。あれこれ買いたいんだが、身の丈に合わせて消費をするしかないので需要を抑える。これは個人としては経済合理的行動だ。
しかし、まさに合成の誤謬が働き、需要が減少すれば、経済が成長せずにまたまた実質賃金という能力は落ちるのである。
この悪循環が現在陥っている日本経済の姿だろう。
昔、ゆでカエルという考え方が流行った。
ゆでガエル理論は、経営や組織を語る際によく使われるたとえ話で
「カエルをいきなり熱湯に入れると慌てて飛び出して逃げるが、水から入れてじわじわと温度を上げていくと、カエルは温度変化に気づかず、生命の危機を感じないまま茹で上がり死んでしまう」
という話。
居心地の良いぬるま湯のような状態に慣れきってしまうと、変化に気づけずに致命傷を負ってしまうというビジネス上の教訓だ。
今の日本の状況もいわば「ゆでカエル」と構造が似ている。ただし、「ゆでカエル」ではなく「冷え(凍え)カエル」だ。さっきの「ゆでカエル」の話を変えてみる。
「カエルをいきなり氷水に入れると慌てて飛び出して逃げるが、温水から入れてじわじわと温度を下げていくと、カエルは温度変化に気づかず、生命の危機を感じないまま凍えて死んでしまう」
どうだろうか。日本経済も徐々に不景気になって、増税をされて、賃金が徐々に下がり、可処分所得が少しずつ減っていっても、生活の苦しさに少しは気付くもののまあこんなものかと諦めて、命の危険を感じないままついには死んでしまう、そんな日本経済の状況ではないだろうか。
つまり「身の丈に合わせる」という処世訓は、今の日本には恐ろしい末世が待っているのである。
さて、この不幸の方程式で能力をそうそう増大出来ない場合の折り合いの付け方として、欲望を変化させる方法に二つある。
一つは欲望の度合いを下げることだが、これが生活ギリギリの欲望の場合、もうそれ以上下げることは困難だ。ではどうするか。それは欲望の質を「変える」ことだ。苫野一徳氏もこの本の中でそう述べている。
「欲望の泥沼にはまったままもがき続けるのは、ひどく苦しい。でも僕たちには、それまでの欲望とはまた別の欲望を豊かに生きる道だってあるのだ。」
ふむふむ、なるほどそういう生き方もいいかもしれないな。
と思ったけれど、これは政府・財務省が喜びそうな折り合いの付け方であるようだ。
よく左翼学者は、
「日本経済が成長する時代は終わった、お金では買えない豊かな生活を求めるべきだ」
とかなんとか言う。
成長を諦めよ、と学者が言ってくれるということは、財務省は財政出動なんてしなくていいということを応援してくれることなのだから、財務省としては嬉しいかぎりだ。
「欲望を変える」というのは、苫野一徳氏のいうようなカッコいいものでもなく、成長を諦めよという学者に賛成しているのでもなく、むしろ生活苦の中から出てくる「叫び」なのではないか。
石川啄木の「はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」人々の最後の手段としての「欲望を変える」ことではないのか。
だから欲望を変えなくとも、不幸の方程式が少しでも幸福増大になるような政策が追及されるべきだし、野党も「身の丈」発言を、今の失敗の経済政策を追及する方向に広げてほしいのである。
まあ、安住や福山の顔を見ていると、こりゃダメだと絶望の方が先に立ってしまうけど。