「たかが電気」で有名になったのは反原発ミュージシャン坂本龍一でした。ブラックアウトを経験し、冬場を迎えて電力不足で計画停電し、寒さで凍えてしまうかもしれない北海道民に、ぜひ面と向かって「たかが電気」と訴えてほしいと思います。

泊原発の稼働について、政府もマスコミも有識者も無責任です。あたかも北海道には原発がないかのように一言も口にしません。泊原発の再稼働について言及するものは、右翼、トンデモ呼ばわりとなっています。

北海道の急場を凌(しの)ぐには、泊原発の再稼働しかないはずなのに。

 

前に書いたブログ記事に次のようなコメントがあり、それに回答しました。

 

>北海道でもLNG火力を新設し、もう稼働を始めますので、他の小~中規模の火力と合わせて電力の分散化を行えば事足ります。

 

回答

全く安易な発想です。

LNG火力を新設とのことですが、稼働は来年の2月からで、57kWです。これで真冬の北海道に間に合うと言えるのですか。

北海道に住んだことはありませんが、冬は11月にもやってきて、冬期の電力需要のほうが高く、電力量全体では通常次の約30%増加するといいます。必要電力量は400万~500万kWと言われています。

苫東厚真火力1号機が復旧して、やっと全道391万kWと地震前後と同等になったわけですが、

2号機(60万kW)が10月中旬以降、4号機(70万kW)が11月以降に復旧見込みなので、4号機が復旧するまではかなり電力供給が逼迫すると思われます。

また、「他の小~中規模の火力と合わせて」と言っていますが、他の小~中規模の火力はみんな40年以上の老朽オンボロ火力発電所ですよ。

しかも、泊原発停止のため、いままで止めていたのを再稼働させていたために、電力マンの必死の努力にかかわらず稼働が不安定とのこと。911日には音別火力2号機が緊急停止しましたし、それ以前に1号機も故障して、修理して再稼働しています。ひとつを直しながら、ひとつを動かしているわけで、まさに綱渡りです。

 

私も貴方と同様原発には反対しています。火力主力にすべきです。太陽光や風力発電はクズ電力ですから要りません。ただ、廃止するにはもっと準備をしてからでも遅くはない。原発が再稼働した途端に爆発するわけではないはずです。韓国も中国も沢山の原発を稼働させているじゃありませんか。

 

このブログ記事にも書いたように

「餓死寸前の人の前に、賞味期限切れの食料があったとき、あるいは腐りかけの食料があったとき、健康に良くないからと食べることを止める、あるいは食べようとしている人からその食料を取り上げるのか」ということです。命より健康のほうが大事だというなら、それは 倒錯そのものだし、北海道民に対して無責任と言わざるをえません。

 

今問題なのは、平常時ではなく緊急時にどの様に選択するかであり、そこには平常時の判断基準ではいけない、緊急時の判断基準があるのではないかということです。イデオロギー優先の判断は生活を破壊するのではないでしょうか。

(以上)

 

何しろ反原発派の人たちは、原発が稼働すると直後にも爆発するような勢いで語ります。そして、生身の北海道民の今、すぐ来る厳しい冬への対処は大甘の判断しかしません。

この発想は反原発ミュージシャン坂本龍一の「たかが電気」そのものです。

 

原発事故後の6年前に次のように言っていました。

「言ってみれば、たかが電気です。たかが電気のためになぜ命を危険に晒されなければいけないのでしょうか?たかが電気のために、この美しい日本、そして、国の未来である子供の命を、危険に晒すようなことをすべきではありません」

 

ネットを見ると「たかが電気」発言が誤解されている。もっと全文を知ってほしいと。

そこで、ネットから全文を拾ってみました。集会での演説の言葉だったんですね。

 201276日に首相官邸前で行われた15万人規模のデモに参加。16日には主催者発表で約17万人が東京・代々木公園に集まった「さようなら原発10万人集会」の壇上に立った。

「日本人、一市民として来ました。これだけの人が集まったのはやはり、原発に対する恐怖が充満しているんだと思います。
残念ながらデモだけでは原発は止まらない。集会を催したり、脱原発の首長を増やしていくことが必要です。だがすぐには止まらないので、長期的にはなりますが、我々ができることといえば、電力会社への依存を少しでも減らしていくこと。
こういう声がプレッシャーとなって届きますし、電力会社の料金体系、発送電の分離、地域独占といったものが自由化していけば、原発に頼らない電気を我々市民が選ぶことができる。また、一家庭や事業所がどんどん自家発電していく。そうやって時間はかかるが電力会社への依存を減らせば、私たちの払うお金が電力会社に行き、原発の施設になるわけですから、そういうところに払うお金を少しでも減らしていくことが大事だと思っています。
 言ってみれば、たかが電気です。たかが電気のために、なんで命を危険に晒さないといけないのでしょうか。

2050年頃には電気は各家庭、事業所で自家発電するのが当たり前の世の中になって欲しい。たかが電気のために、この美しい日本、そして国の未来である子供たちを危険に晒してはいけない。お金より命です。経済より生命、子供を守りましょう。日本の国土を守りましょう。
最後に、「福島の後に沈黙していることは野蛮だ」が私の信条です。」

 

全文を読んだら益々坂本龍一のいい加減さがわかってきました。

「お金より命です。経済より生命、子供を守りましょう。日本の国土を守りましょう。」という言葉には大いに賛成したいですね。でも、命、子供、日本の国土が反原発のために危うくなっているとしたらどうするのでしょうか。

北海道民にとって、いや国民にとって、「たかが電気」なんでしょうか。電気は命を支えているんじゃないでしょうか。私は脱原発です。しかし、それは長期的に準備ができてからのことです。

 

坂本龍一の演説の中で、

「我々ができることといえば、電力会社への依存を少しでも減らしていくこと。こういう声がプレッシャーとなって届きますし、電力会社の料金体系、発送電の分離、地域独占といったものが自由化していけば、原発に頼らない電気を我々市民が選ぶことができる。また、一家庭や事業所がどんどん自家発電していく。そうやって時間はかかるが電力会社への依存を減らせば、私たちの払うお金が電力会社に行き、原発の施設になるわけですから、そういうところに払うお金を少しでも減らしていくことが大事だと思っています。」
 

ここでは電力会社が極悪人扱いです。

「一家庭や事業所がどんどん自家発電していく」なんて、資源のムダ使いの最たるものだし、生活基盤の脆弱化そのものです。予備電源としての自家発電でしかないでしょうに。

 

「発送電の分離、地域独占といったものが自由化していけば」といっていますが、この発想は新自由主義そのもの、竹中平蔵の考え方そのものです。

坂本龍一の希望通り発送電の分離は立法化され、再来年実現します。発送電を分離したら、儲けに走って、電力の公的責任を果たさなくなると言われています。

例えば、ブラックアウトを防いだり、少ない電力を確保するために老朽発電所を稼働させていますが、発送電を分離したら、儲からないお荷物の発電所は全て廃止されるでしょう。電力供給には「冗長性」という概念がとても大事ですが、発送電が分離されたら、まず「冗長性」は捨てられるでしょう。

 

 また、原発に頼らない電気を再生可能エネルギーに乗り換えようとして、孫正義らが太陽光発電を詐欺的に拡大。そのメガソーラーが全国の環境を破壊、つまり日本国土を破壊し、クズ電力のために、貧しい人達から毎月数千円も掠め取るようになってしまいました。これも坂本龍一の発想の一つの帰結と言えます。反原発を叫べば叫ぶほど喜んでいるのは、いかがわしいメガソーラー事業者だけ。金持ちが益々得をする太陽光発電です。こんなことを坂本龍一は求めていたのですか。

  

「そうやって時間はかかるが電力会社への依存を減らせば、私たちの払うお金が電力会社に行き、原発の施設になるわけですから、そういうところに払うお金を少しでも減らしていくことが大事だと思っています。」

 これも凄いことを言っていますね。電力会社の電気は使わない、つまり金を払わなければ、電力会社は原発を作ることができないといっています。

でも電力会社の収入がなくなれば原発の前に電力会社は潰れてしまいますよ。坂本龍一はそれでもいいんだと。自家発電すればいいんだと。まさにユートピア。自給自足の生活をしようという勧めです。

でもそのとき電力会社のない社会はどうなっているんでしょうか。いやいや全ての会社は自家発電すればいいんだということでしたね。

しかし、自家発電のための装置と蓄電池はどこから調達するのですか。自家発電程度の会社が、大規模に製品を作れるんでしょうか。

いや、海外から調達すればいい。海外はどうやって機械や製品を作っているのでしょうか。電力会社の電力を使っているはずですね。それなら海外ではなく、日本の電力会社に任せればいいではないですか。

 

 つまり、この社会、自給自足なんてできっこない、そんなことを真面目に考える大人はいないんです。だって常識があるから。坂本龍一は単に反原発を言いたいために、適当な話をしているだけなんです。

 

 要するに、反原発ということに固まり過ぎて、現実が見えていないのです。

 

最後に、「福島の後に沈黙していることは野蛮だ」が私の信条です。」とアドルノの「アウシュヴッツ以降に詩を書くことは野蛮である。」を文字って、演説を締めくくりました。

私は坂本龍一の言葉を次のように変えて言いたい。

「福島の後に「たかが電気」などとほざいているのは野蛮だ!」と初めは書きましたが、ちょっと間違えました。次のように書き直します。

「北海道ブラックアウトの後に「たかが電気」とほざくのは野蛮だ!」

 

「福島の後に沈黙していることは野蛮だ」とは、デモその他のアジテーションです。それに乗せられた人が数多くいるのです。しかし、デモをする、脱原発を叫ぶのが沈黙しないということか。沈黙しないとは、単に原発反対ではなく、もっと人間とエネルギーと社会に関する思考を深めることではないでしょうか。