北海道大地震は苫小牧CCSが誘発したとの記事について、たくさんのアクセスをいただき、ありがとうございました。

 

 地震爆発論はほとんど誰も知らなかったと思われますが、かなり以前から石田昭氏が独自に研究して結論に至ったものです。地震学者からすれば、素人のトンデモ理論として無視又は歯牙にも掛けないという態度のようですが、石田氏の理論の方が、日本の伝統的地震学を受け継いで理論を発展させたもので、むしろ正統派なのです。

 

 現在の活断層理論等は、アメリカから輸入されたもので最近のものでしかありません。歴史学もそうですが、学界の権威を得てしまえば、議論を止めてしまい、昔の日本独特の地震学も捨てて恥じません。

定説地震学者は疑問だらけ、理論の穴だらけなのですが、学者はこれを否定すると学界内で生きていけなくなるので、新理論というか定説地震学否定理論を無視するしかなくなっているのです。

 

そこで、少しでも地震爆発論を理解していただくために、2年少し前に別のブログに私が書いた記事を再録します。興味を持たれた方は、石田氏の地震爆発論ホームページを見ていただくか、著作に当たっていただければ幸いです。

 

 

地震学は間違えてばかりいる。5年前もそうだった!活きた歪みと死んだ歪みの区別もできない地震学者 

2016/04/20

 

  石田昭氏は東日本大震災直後に「新・地震学セミナー」に次のように書いています。

 「本日(2011.4.14)の産経新聞に「崩れた地震学 学者ら予測できず」という記事があり、「歴史の空白が盲点となった」という主張がなされています。

 「過去30年の地震学が崩壊した。東日本大震災の巨大地震に地震学者が打ちひしがれている、史上最大の地震を予測できず、研究を防災に生かせなかったからだ、敗北の裏には、過去の経験則に基づく地震学の限界があった。(長円洋介)」と記者がコメントしています。

  前例が無いという見出し記事には、東北地方は都から離れていて、数百年間巨大地震の記録がなかった。だから、巨大地震が起きないという考えに自然と傾きがちだった、という島崎東大名誉教授のことばがあります。

それを受けて、「過去の地震から規則性を見いだし、それを検証して将来を考えるのが地震予測の基本だ、前例がないと研究は進まない。地震学は自然科学であると同時に、歴史学の側面もある。そこに盲点が潜んでいた。」

という文章があります。

 これは現在の地震学がフンボルト以来の自然現象の探求という姿勢を失っていることを物語っています。地震学者は前例に基づいて判断するか、コンピューターがはじき出す結果を見て判断するか、どちらかのようです。地震に伴う不可思議な現象が何故起きるのか、原因はなんだろうか、という自然探求の姿勢が全くありません。(後略)」

 

  今日の読売新聞「編集委員が迫る」で、地震学者名大山岡教授へのインタビューで「つまり現在の知見や技術では、(地震は)起きてみないとわからないということか」という質問に「いや地震学者はそこまで無知ではない。地震が起きるメカニズムはわかっている」と気色ばったとのこと。

 編集委員は、後書きで「熊本地震でも地震学者の言葉が人々に伝わらない」と書いているが、これは地震学者への不信感の表れであるように思える。

 

 5年前の東日本大震災でも、「過去30年の地震学が崩壊した。東日本大震災の巨大地震に地震学者が打ちひしがれている」と地震学者に不信感がぶつけられ、今また、常識を覆す事態だとか、前例がないとかなんとか言い訳のオンパレードである。小さな地震ならいざ知らず、大地震となった途端専門家といわれる地震学者が右往左往する。いい加減に眼を醒ましたらどうなのか。

 

 この読売新聞の記事のなかで、「地震学者ができること」「まだできないこと」と整理されていて、「地震学者ができること」として、「地震がどのように発生したかメカニズムの解明」「その地点の地震発生頻度を確率で示す」を挙げている。

この期に及んで大した自信じゃないか。「地震がどのように発生したかメカニズムの解明」というが、常識を覆す事態という見解と矛盾するんじゃないか。

 ここでいう「常識」とは、地震発生メカニズムのことだろう。なら、常識を覆す事態とは、解明されたと思った地震発生メカニズムは修正或いは転換されないといけないという認識につながるのではないのか。

 5年前に「過去30年の地震学が崩壊した」という反省はもう帳消しになったのだろうか。

 

  そういう反省なしに、だらだらと「物語」を吐き続ける。NHKの報道で。

 「活断層のメカニズムに詳しい東北大学の遠田晋次教授は、16日と17日に行った現地調査などをもとに、16日の大地震によって周辺の活断層にどのような影響が及んでいるかを解析しました。

その結果、17日の大地震でずれ動いたと考えられる活断層帯の北東側と南西側、それに北西側や南東側で、放射状に地震によるひずみが加わっているとみられることが分かったということです。

 新たにひずみが加わったところには、熊本県阿蘇地方や大分県、それに震源の南西側など、その後、地震活動が活発になっている領域が含まれていました。遠田教授は大地震によって、ひずみが高まったことで地震活動が活発化したとしています。」

 

  これに対し、地震爆発論の石田氏が的確な批判をしています。

「断層地震説では地震によって歪が解放されるのではないでしょうか。歪が再配分されて、新たな地震の原因になる、というのは大きな矛盾です。

 地震学会の広報誌にも「本震の発生によって、破壊された領域近くの岩石は、新たに歪みを加えられたことになります。この歪みによって引き起こされる地震が余震です。」

「長年蓄積された歪みが開放されるのが地震」というのなら、「地震によって新たに歪みが付与される」というのはおかしな話です。  

 力学で使用する「ひずみ(strain)」という用語は「応力(stress)」と対応したものです。たとえば、地震の後で家が歪んでいますが、これは応力と対応していない“死んだ変形”(deformation or distortion)です。元に戻らない“死んだ変形”のことです。

ひずみ(strain )とは応力(stress)と一対一の関係がある“活きた変形”のことです。つまり、力の作用がなくなって、応力が無くなれば、歪みもなくなり、元に戻ります。日本語は「ひずみ」と「ゆがみ」の区別がついてなく、どちらも「歪」という漢字を当てるので誤解するんですが、力学的には明確な違いがあります。

 

  一例を挙げましょう。地震の時には高層ビルが揺れますが、揺れているときの歪みは“活きて”います。しかし、倒壊したビルは“死んだ”歪みを残すだけです。地震学者は力学音痴です。精神的な意味のストレスと力学的意味のストレスとの混同もあるように思います。」

 

  また3年前にも石田氏はこの歪みの解釈について、遠田教授を批判して次のように書いています。

「遠田氏の使っている「ひずみ」はdistortionではないでしょうか。地震の結果生じた「ひずみ」とは、家が傾いたというのと同じ「変形現象」のことです。力学的な「歪」ならば、「応力」が伴うはずです。どこに変形が集中しているのかを調べても、永久歪としての変形distortionしか分からないのではないでしょうか。地震によって単にゆがんだだけでは弾性反発力は伴いません。そのような変形が原因で地震が起きることはありません。

 

岩盤はガラスと似たような強度で、100mの部材だとしたら1cm変形するだけで破壊してしまいます。“歪がたまっている”、という表現は観念的なもので、力学的なものではありません。日本語の使い方はあいまいで誤解しやすいですが、力学をきっちりと認識していれば、生きた歪と死んだ歪を取り違えることはありません。遠田氏が見ているのは単なる変形、死んだ歪です。」

 

  石田氏の歪みの解説を読んで、物理学に素人でも全くその通りと思います。非常に説得的です。地震学者はそんな簡単なことを理解しないんでしょうか。恐らく地震学者でのみ通用するスーパー物理学を持ちだして説明するのでしょうね。

 

 しかし、それは真正物理学の侮辱じゃないんでしょうか。物理学者は地震学に対してキチンと主張しないんでしょうか。

物理学者よ、声を出せと言いたい。破綻地震学の延命に手を貸しているのは物理学者ということになってしまいます。

 

 まあ、1718世紀の科学革命で起こったように旧科学(定説地震学)の側は痛くも痒くもないようです。

トーマス・クーンの「科学革命の構造」の肝について、ネット(「読書猿 パラダイムとかクーン『科学革命の構造』を5分間で説明する)では次のように解説しています。

 

「…変則事例の出現が科学者に認知されても、そのままパラダイムの危機に直結する訳ではありません。 

  「理論とあわない現象によって反証されるからこそ科学なんだ(反証されないものは科学じゃない)」とポパーは主張しましたが、クーンは「いや、理論に合わない現象が出てくることなんて日常茶飯事で、それこそ通常科学のうちで解くべき問題として科学者の飯のタネなんだ」と考えました。

 

  たとえばニュートンの『プリンキピア』は、天体や地上の運動を統一的に扱える画期的な仕事でしたが、問題を解決するだけでなく、多くの問題を生みました。つまりニュートンの理論に合わないことがたくさん見つかり、科学者はそれを通常科学の中でパズルとして解く(ニュートン力学のパラダイムの内で解決する)仕事を何世紀も続けることになります。

 

  しかし変則事例が無視できないばかりか、現行のパラダイムでの問題解決ではにっちもさっちもいかなくなるとパラダイムの危機が訪れます。ここでの科学者の対応は3通りあります。

 

ア.理論にいろいろ追加したりして現行のパラダイム内でなんとか解決する

イ.棚上げして次世代に期待する

ウ.新しいパラダイム候補を探す

 

 危機に至っても、新しい方へ行くよりも、何とか変わらずにいようとする力が強く働きます。

  しかしこの変わらずにいようとする志向、言い換えれば「現行のパラダイムの内で解くべき問題はすべて解けるのだ」という確信こそが、わき目も振らず通常科学に科学者を打ち込ませるのです。これこそが通常科学の知的生産の効率性を支え、さらには精緻化・精密化から変則事例を科学者の目に触れやすくし、結局のところ科学革命を準備するのです。」(引用終り)

 

 現在の地震学は、「いや、理論に合わない現象が出てくることなんて日常茶飯事で、それこそ通常科学のうちで解くべき問題として科学者の飯のタネなんだ」という状況の中で、「変則事例が無視できないばかりか、現行のパラダイムでの問題解決ではにっちもさっちもいかなくなるとパラダイムの危機が訪れ」た状態に落ち込んでしまったといえるでしょう。

  そしてその3つの対処策のうち、「理論にいろいろ追加したりして現行のパラダイム内でなんとか解決する」ということに固執しているのです。本当の対処方法は、「新しいパラダイム候補を探す」ということなのに。

 

  続いて「読書猿」氏は次のように書きます。

 「…研究のやり方を変えるのは非常にコストがかかることでできれば避けたいのですが、危機が深まるとそうとも言ってられません。いよいよ現行のパラダイムがやばそうになると、科学者を制限していたパラダイムのたががゆるみます。

  これまでのやり方とは外れたアプローチがいろいろ試されます。例えばそれまでまともな科学者なら避けるべきだった哲学的議論なんかも交わされたりもします。この状態は、パラダイムができる(=あるパラダイムを科学者共同体に受け入れられる)以前の状態、すなわち前パラダイム期に似ています。

 

 目下解けない問題=変則事例のすべてを解くものではないけれど、そのいくつかには解答(つまり部分解)を与えるやり方が提案され始めます。しかし解けない問題もたくさんあるので、すぐには誰もが採用するという風にはなりません。

  しかし目下解けない問題=変則事例の多くを解くやり方が現れ、どうにかして支持を集め、多くの科学者がその元に集まると、これを新しいパラダイム=以降の研究のお手本となる業績として、新しいステージの通常科学がはじまります。こうした繰り返しを経て、科学は発展していくとクーンは言うのです。」

 

 地震爆発論は、「目下解けない問題=変則事例のすべてを解くものではないけれど、そのいくつかには解答(つまり部分解)を与えるやり方の提案」といえるでしょう。

 

  ただ、全く社会的に認知されていない。それは、「現行のパラダイムでの問題解決ではにっちもさっちもいかなくなるとパラダイムの危機」が浅いからとも言えます。

 

もっとパラダイムの危機が深化しなければ地震爆発論が日の目を見ないとなれば、それは社会的損失が多大になるという犠牲を払うことに繋がります。

一刻も早く定説地震学を捨てて、「新しいパラダイム候補」を社会が探す動きになってほしいと思っています。

(引用終り)