今回の総選挙での私の関心はただ一つ。希望の党というか小池百合子の幻想が壊れるかどうかということだった。そういう点では、理想の選挙結果だった。これで小池の総理の芽は全く無くなったであろう。
小池人気は幻想だったのだから、幻想が壊れたらもう復活は絶対にない。中身が問題になっているのなら復活はありえるが、中身は全くない、都知事の実績も全くない、無い無い尽くしで、希望はマスコミの応援だったが、これも無くなったのだから、もう復活は絶対にない。
都知事は総理になるためのステップだったのだから、総理になれないなら都知事もやる気がなくなるだろう。元々やる気がなかったのだから、益々都知事はやりたくなりはずだ。そして早晩都知事を辞任するだろう。
何回も書いてきたように、小池の幻想を支えてきたのは、マスコミと東京都の愚民だ。そのマスコミが小池に愛想を尽かしたのは、「排除」発言でもなんでもない。排除とは選別のことだが、選別は新党としては当然のことだ。小池も当たり前のことを言ったまで。それが逆風になったとは到底言えない。
マスコミが愛想を尽かしたのは、小池が思ったより右翼掛かったことを言い始めたからからだ。左翼のマスコミは、これではやぶへびだとやっと気がついたのだ。だから、マスコミの政治方針通りの報道というよりイメージ操作、つまり小池を引き下ろす操作を始めたというだけのことだ。
そしてこれが効果を出し始めた。そして希望の党から排除された古臭い民進党崩れの枝野、長妻らを悲劇のヒーローとしてこれまた印象操作をし始めた。そしてこれも成果があった。
つまり、愚民たちはやはりマスコミのイメージ操作に容易く操られてしまうということが証明されたのだ。
小池は自分の力を過信し過ぎた。何の確固たる基盤もなく、まさにファンタスマゴリーの幻想に自らが騙されてしまった。本当にマスコミと愚民の関係がわかっていたら、最後までマスコミを操り続けただろう。
つまり、本音はどうであろうと、マスコミは左翼であり、左翼の臭いさえさせておけば、大いに応援してくれるという基本さえきっちり捕まえておけば、今度のような失敗はしなかったであろう。
上手の手から水が漏る、とはこのことを言うのだろう。
小池の党が敗れたことは大変いいことだったが、マスコミが再び自信を持ってしまったのは今後に尾を引くことだろう。
本当はマスコミが騒いでも、小池が幻想を振りまいても、有権者は動かされることなく、賢い判断をすることが理想だろう。しかし、それは望んでも無理なことかも。
ジョージ・オーウェルの「カタロニア讃歌」を読んでいたら、扉の裏にこんな言葉が引かれていた。
愚か者にその愚かさに応じた答をするな、
愚か者と同じものにならぬように。
愚か者にはその愚かさに応じた答をせよ。
愚か者が己れを賢いと思いこまぬように。
箴言 第二十六章4-5
今回の選挙というか小池やマスコミを考えるうえで、なかなか含蓄のある言葉ではないかと思うのである。