社会学をやっていると言われている古市憲寿が、「ユーキャン新語・流行語大賞」に選ばれた「保育園落ちた日本死ね」というフレーズに対する批判に、異論を唱えたとか。


(引用始め)

 古市氏は2日にツイッターで言及し、「言葉は文脈をともなって初めて意味を持つ。『保育園落ちた日本死ね』が話題になった時、『日本死ねなんてけしからん』という批判よりも、共感が多かったのは、『日本死ね』という言葉ではなく、あのブログが多くの人に読まれたから」と分析。「あのブログも読まずに『日本死ねなんてけしからん』と言われても。ちなみに僕が知る限り、あのブログが騒がれていた当時、『日本死ねなんてけしからん』と言っていたのは、おじさん政治家たちです。いま怒っている人との共通点は、ちゃんとブログ本文を読んでいないこと」だと指摘した。
 また「死ね」という表現については、「人格攻撃でもなく、あくまでも比喩としての『死ね』と、具体的な他者や人格をおとしめるために使う『死ね』は全然違うよ。しかも、他にどうしようもなく、そうするしかない悲痛な叫びとしての『日本死ね』でしょ」との見解を示した。

(引用終り)
 

 「あくまでも比喩としての『死ね』」っていうのは都合のいい言い草だ。その条件は「他にどうしようもなく、そうするしかない悲痛な叫びとして」だ。

 いいことを教えてもらった。これからは左翼が何か文句をいってきたら「あくまでも比喩としての〇〇だよ」と返せばいいのだ。

  ヘイトスピーチ?「あくまでも比喩としてのヘイトスピーチだよ」まさに、他にどうしようもなく、そうするしかない悲痛な叫びとしての、言ったらどうするの?。

 

 私自身はヘイトスピーチは嫌いだ。言うへきじゃない。しかし、古市の言い訳には狡い言い方が隠されている。自分たち左翼は許されているが、右翼は許さない、というわけにはいかなくなるということだ。

 

 それにしても、保育園落ちたくらいで、「他にどうしようもなく、そうするしかない悲痛な叫びとして『日本死ね』」というのは大げさというより言い過ぎだろう。保育園落ちたぐらいでいちいち日本が死んでしまったら、日本がいくつあっても足りないよ。

 世間はそういう妄想に怒りを感じたのではなく、個人的な悩みをすぐ国家否定、日本否定を持ち出す嫌らしさに、だろう。

 人それぞれ失敗や悩みがある。その人個人には悲痛な叫びかもしれない。しかし、それを「日本死ね」と結びつけるのは、アホかはたまたグロテスクでしかない。

 

  保育園落ちた、日本死ね。

  高校落ちた、日本死ね。 

  大学落ちた、日本死ね。

  会社落ちた、日本死ね。

  市営住宅落ちた日本死ね。

  老人ホーム落ちた本死ね。

  階段から落ちた日本死ね。

 

  どうですか。「日本死ね」は異常でしょ?