今年の夏は雨が多かった。一時期関東ではダム貯水量不足で水不足が懸念されたが、遅い台風が次々と来て以来、日本全国雨だらけで困ったことになってしまった。水は必要。雨は恵みだ。しかし、多すぎても困る。雨だけでなく日照不足も深刻なようだ。太陽が照らなければ米や野菜、果物が生育しない。農家にとっても今年は悩みの年になった。観光地も同様だろう。

 

 雨、日照不足は気分も滅入らせるし、いいところはあまりないのだが、よく考えるといいこともあった。それは太陽光発電が能力通り発電しなかったことだ。困ったことじゃないのかって?冗談でしょう。雨や雪で太陽光発電効率が減少すればするほど国民にとっては嬉しい知らせなのですよ。これは昨日の記事に大いに関係がある。昨日は以下のように書いた。

 

「ついでに、この世の中には絶対に捕まらない詐欺というものがある。つまり国家的詐欺、法律の後ろ盾を持った詐欺だ。FITがその典型だろう。

FITとは、太陽光発電等の再生可能エネルギー固定価格買取り制度のことだ。孫正義と菅直人がつるんで国民から詐欺をしようとした制度だ。

太陽光発電はいわばクズ電力だ。こんなものが多くなってもなんの役にも立たない。それを原価以上大幅固定価格で20年も買い上げるというトンデモ詐欺制度だ。

今や全国から年に1兆円以上も国民から吸い上げている。

 クズ電力に対して、むりやり国民から金をふんだくっている。大泥棒も大泥棒。詐欺も詐欺。しかも全く捕まらないときている。

GACKTを騙した詐欺師は100億円だが、孫と菅の詐欺は1兆円、しかもこれからもっと増えるのだ。これは詐欺の理想だな。」

 

 再生可能エネルギーつまり太陽光発電は世紀のインチキなんだが、なぜインチキかは説明していない。今日はこれを説明しよう。

 

 そもそも「再生可能エネルギー」という言葉自体が呪術的な人を惑わす言葉だ。再生可能エネルギーとは汲めども尽きぬエネルギーというイメージを作り上げ、その中に潜む問題の直視を妨げている。

 

「再生可能エネルギーは良き/善きもの」と単純に前提にせずに、その本質を考えてみるべきではないか。

 私の言いたいことは、将来的には再生可能エネルギーに転換すべきだが、今はまだ尚早、というものではない。そもそも原理的に再生可能エネルギーは価値あるものなのか、それはあまりに非科学的なのではないかという問題提起なのだ。

 

 エネルギーや地球温暖化批判を展開する近藤邦明氏は以下のように述べている。

「自然エネルギーに過大な期待を抱かせる一つの要因は、希少なエネルギー資源、つまり石油を消費せずに、どこにでも存在し、莫大な絶対量を持っているからであろう。

 しかし、それはエネルギー密度の低い、不安定なエネルギーだという性質を併せ持っている。自然エネルギーという、どこにでもあるが、拡散したエネルギーを、工業的に利用できる、高度なエネルギーにするためには、多くの仕事と資源を投入することが必要になる。

 更に、制御不能な時間的不安定性を持つ自然エネルギーを利用するためには巨大なバッファ装置が必要になる。多くの人々は、自然エネルギーを利用できるようにするために投入されるこれらの工業的エネルギー(=石油エネルギー)と鉱物資源を見落としている。

 

 近藤邦明氏が述べているように、今問題になっているのは発電というエネルギーの形態であり、すべて発電というのは工業生産プロセスを経て取り出されるものであり、自然エネルギーとて例外ではない。

 自然エネルギー発電とは、自然エネルギーを何らかの工業製品である発電装置によって捕捉して電気に変換する過程であり、自然エネルギー自体の無尽蔵性が本質なのではなく、自然エネルギー発電の本質とは発電装置の工業的な生産であると捉えないといけないということである。

 

 つまり、自然エネルギーを考えるとき、目を向けるべきは「自然エネルギーの無尽蔵さとか自然にやさしい」とかではなく、工業的な生産品としての自然エネルギー、それは太陽光パネルの生産、巨大風車の生産そしてそこから生じた電気を安定的に社会全体のエネルギーとして利用可能にするまでの装置群いわば自然エネルギー発電システム総体として捉えないと、自然エネルギーを間違えてしまうということだ。

 大規模な自然エネルギー発電システムの導入は、社会全体のエネルギー効率を著しく悪化させるものだということを知らなければならない。

 

 ひとつの大いなる勘違いの例を紹介しよう。人類学者・宗教学者である中沢新一氏が書いた「日本の大転換」(集英社新書)という本だ。

 ここでは自然エネルギーを礼賛し、今や第八次エネルギー革命の時代に立っていると述べているが、その論理は近藤邦明氏の論理と比べると全く抽象的・非現実的だが、自然エネルギー推進には役立っているようだ。こういう論理に一般市民はコロッといってしまうのだ。

 

中沢新一「日本の大転換」から。

「…第八次エネルギー革命は、このような原子力発電に依存する産業形態から離脱して、生態圏の内部に太陽エネルギーを媒介・変換する新しい技術を開発することをめざす、全人類的な運動となっていこうとしていますが、それによって私たちの意識のなかに、長いこと失われていた贈与の次元が取り戻されることにもなります。

 

…第八次エネルギー革命を支える技術の原型を、植物の光合成に見出すことができる。つまり、人類はいまだかつて、植物が実現した太陽エネルギー変換のメカニズムそのものを模倣した技術によって、産業全体を動かし、文明を育むというエネルギー体制をもったことがないのである。第八次エネルギー革命の初期の段階で、重要な働きをすることが期待されている<太陽光発電>こそは、電子技術で模倣された植物光合成のメカニズムにほかならない。

 

…植物のおこなうこのエネルギー変換の過程では、太陽が放射する莫大なエネルギーの一部分が、生命活動に必要な形態につくりかえられて、生物はそれを利用して生きています。ここではあきらかに、人間が古くから「贈与」として概念化してきた現象がおこっています。

 

…太陽はこのひどく「気前のよい人」にあたる贈与者としてふるまっているように見えます。少なくとも、人間はそのように意味化して思考します。このように考えてみると、生態圏を生きるほとんどすべての生命が、太陽からのエネルギーの贈与によって、存在しているということに気づきます。

 

…今日やや曖昧に<自然エネルギー>と呼ばれているもののエネルゴロジー的構造を、いまや私たちは明確に理解し表現することができる。

 それは人工に対立する自然なエネルギーのシステムではなく、太陽エネルギーの特別な変換様式をあらわしているのである。第八次エネルギー革命をリードしていく技術は、いずれも<太陽エネルギーを生態圏のなかに媒介的に変換するシステム>となるであろう。

 しかも、石炭や石油の場合とは異なって、地球に降り注ぐ太陽エネルギーを、大きな遅延なく、電気・化学エネルギーに変換できるシステムが、その主力となっていくことになる。

 

…第八次エネルギー革命は、原子力発電からの脱出をめざすとともに、人類の思考のうちに、これまで長いこと隠されてきた贈与の次元をよみがえらせる運動でもあるのだ、と私は考える。…」

 

 以上が中沢教授の光合成と類比させた太陽光発電礼賛だが、近藤邦明氏は「生物が太陽光をそのまま利用することと、工業製品で捕捉して利用する太陽光発電は全く異なるものであり、比較の対象になりません。

 石炭・石油・天然ガスなどの優秀なエネルギー資源が掘り出されなくなった段階で工業生産は不可能になり、工業製品である太陽光発電も利用できなくなるというのが理論的な帰結です。

 これを否定するためには、太陽光発電装置からの電力だけで同等の太陽光発電装置を再生産した上でさらに余剰のエネルギーを供給できることを示さなくてはなりません。」と述べている。どちらが真実に近いだろうか。

 

 昔、シャープの広告のコピーにはこう書かれていたそうだ。

「地球に降り注ぐわずか1時間の太陽エネルギーで、世界中が1年間に消費するエネルギーをまかなえます。」

 

これについてある研究者が書いている。

「地球に吸収される太陽光エネルギーの量は約1.2 x 1014 kWであり、現在、人類が消費している1次エネルギー量の約1万倍である。

 これを聞いてすっかり安心する人がいる。太陽光エネルギーのほんの一部を使うだけで、人類の使うエネルギーは間に合うと思ってしまうからだ。ある太陽電池メーカーの広告にと書かれてあったのは、その一例である。

 しかし、これはまったく誤解なのだ。「1時間の太陽エネルギーが、1年間の消費エネルギーに等しい」というのなら正しいが、それで賄(まかな)えるというのは正しくない。」と。

 

 こう言い換えたらどうだろうか。

「大海原に漂流する遭難ボート。水も食料も尽き果てた。いや海がすぐ手が届くところにある。無尽蔵の海水がある。これを飲めばいいじやないか。助かった!」

 …っていう奴はいないぜ。

 しかし、自然エネルギーへの期待はこれと同じようなものではないか。海の水ならいくら大量にあっても使えないということがすぐわかることが、太陽光になるとあるいは風力になると「すごい」ということになってしまうのだ。先ほどの学者ですら、太陽の恵みというイメージに騙されてしまうのである。

 

 といっても、自然エネルギーか威力を発揮できる分野がないとはいわない。しかしそれは限定的な使い方になるのであり、自然エネルギーを基幹エネルギーにしようと考えたり、メガソーラーや大規模風力発電を想定するととんでもない無駄遣い、資源浪費につながると考えるべきなのだ。

 例えば電子部品として考えれば太陽電池は、既に実用化され有効である。電卓や電子腕時計の部品として使用価値が高いし、微弱な電力供給が必要とされる分野においては必需品といえる。そのような使い方のみに有効である太陽電池を、石油火力発電という大容量の発電システムの代替として用いるという発想自体に無理があるということだ。