友人のブログで方丈記に触れていたので
ちょっと思い出しました。
桃の事故の後、
死というものに納得がいかず、
死が何なのか、どうして人は死ぬのか
今笑っていた人間が、直後に死ぬ、という現実を
どう受け止めればいいのか…
本当に答えを探すのに、いろんな文献を探しました。
そこでたどり着いたのが、
答えではありませんが
『諸行無常』
です。
いろいろ考えた、と言っても、頭の中は真っ白ですからね(笑)
しかも、偏見だけが存在する頭の中で
何がわかるというのでしょう…。
でもね、
世の中は絶えず動いているのです。
今の時代はそこに私たちは存在し、桃は存在はしませんが…。
だから私はあの頃、異常なほど、交通事故のニュースを読み
毎日何万人もの人が亡くなっているんだ!と
無理やり納得しようとしていたように思います。
坂本龍馬が死んでしまったように
ジェームスディーンが逝ってしまったように
夏目雅子がいなくなったように…
いつか、必ずその時代は終わってしまうのです。
ちゃんぷが家族の仲間入りをしましたが、
フレンチブルドッグの寿命は10年以下です。
もともと身体が弱いので、そこまでもたないかもしれません。
でも、その分、せいいっぱい、できる限りの愛情を注いでいきたいと思ってます。
人間も、一緒です。
寿命は人それぞれ違うものです。
みんなが100歳まで生きるなんて誰も思っていません。
子供の頃に亡くなる人、若くして亡くなる人、これからというときに亡くなる人
頭の中では、そういう人がいることは絶対にわかっているはずなのです。
それが自分の子であるのが悲しく、許せない…。
(他人だったら、自分は笑って生活できたのです)
私は、桃の事故の時に「なぜ桃なんだ」という言葉を聞き
これが人間の本音なんだと悲しくなったことがあります。
方丈記でも、母の愛は特別だと書いていますが
私は、母の愛こそ
見返りを求めない愛だと思っています。
母の愛情は、その愛情の深さを誰と比べるものでもなく、
これだけ愛しているんだ、と認めてもらうものでもなく
ただ、存在し、注ぐだけ…注ぎ続けるだけなのだと思っています。
生まれて1年でも、10年でも80年でも
その子の人生に、自分が悔いのないよう愛情を注げたら
本望なのではないかと思います。
私が涙が止まらないときに出会ったブログです。
サイトの名前を忘れてしまいました。
教えていただけたら、アップします。
あなたが死んでしまいたいほど悲しいのは、
その日々、時間、一瞬が、それほど幸せだったからなのです。
亡くなった方にとってもきっと幸せな日々だったことでしょう。
そしてあなたが、大切な方の冥福を祈るのと同じぐらい、
その方はあなたの幸福を願っていることでしょう。
方丈記
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ゆく川の流れは絶えることがなく、
しかもその水は前に見たもとの水ではない。
淀みに浮かぶ泡は、一方で
消えたかと思うと一方で浮かび出て、
いつまでも同じ形でいる例はない。
世の中に存在する人と、その住みかもまた同じだ。
玉を敷きつめたような都の中で、
棟を並べ、屋根の高さを競っている、
身分の高い人や低い人の住まいは、
時代を経てもなくならないもののようだが、
これはほんとうかと調べてみると、
昔からあったままの家はむしろ稀だ。
あるものは去年焼けて今年作ったものだ。
またあるものは大きな家が衰えて、小さな家となっている。
住む人もこれと同じだ。
場所も変らず住む人も多いけれど、昔会った人は、
二、三十人の中にわずかに一人か二人だ。
朝にどこかでだれかが死ぬかと思えば、
夕方にはどこかでだれかが生まれるというこの世のすがたは、
ちょうど水の泡とよく似ている。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
また、しみじみと感動することもあった。
お互いに離れられない夫婦は、
その愛情が深いほうが必ず先に死んだ。
なぜなら、わが身は二の次にして相手をいたわるので、
ごくまれに手に入った食べ物も、相手に譲るからだ。
だから、親子となると、決まって親が先に死んだ。
また、母親の命が尽きているのを知らないで、
なおも乳房を吸いながら寝ているという情景もあったそうだ。
仁和寺にいた隆暁法院という人は、
これほどに数え切れない人が死んでいくのを悲しみ、
死体の首を見るたびに、額に阿字を書いて
仏縁を結ばせ成仏できるようになさったという。
死者の数を知ろうと、四月五月の二か月の間に数えたところ、
都では、一条から南、九条から北、京極から西、
朱雀からは東の路ばたにあった死体は、
全部で四万二千三百あまりあったという。
まして言うまでもなく、その前後に死んだ者も多く、
また、賀茂河原・白河・西の京、その他もろもろの辺地などを加えていけば、
際限もなかろう。まして、日本全国となると見当もつかない。
悲しみはいつの時代も尽きることはありません。