2、3日前の新聞に「献体事情が様変わり」という内容の新聞記事を読みました。


献体というと、医師を志す学生に医学の進歩、発展のためという理念のもの、人体解剖として供されるものというあれです。


私の義父はこれに登録しています。まだ、元気にしているので、生前登録しているということです。

彼は障害を持っているので、そういった点からも、自分の体がお役にたつのならと自らの意思で登録していると結婚後すぐに、旦那さんから聞かされていました。


当時は、大学のほうも献体を集めるのに苦労しているといわれた時期。

ずいぶんと社会性の高い義父だなと関心したものです。


私はというと、巨大な水槽のような保存槽の中に浮かぶホルマリン付けの体を想像してしまい、とてもじゃないけど自分には無理そうだなと思ったものです。(本当にそんな感じで保存されるのかは全く不明ですが・・・。)


ところが今、葬儀代がないので自治体から紹介されたとか、身寄りがないご遺体なので引き取ってくれと言うことで、献体が増えているという記事を目にしました。


確かに、止むに止まれずという理由から献体するというのは昔からあったと思いますが、いまや経済的に難しいから行政が薦めるという実態に暗澹たる気持ちになってしまいました。



”死”とはそんなに軽いのか。


そこにこだわる自分を見つめてみると、どうやら”死”が軽いのなら、その反対の”生”さえ軽いということを直感的に感じてしまった自分がいるようです。


確かに、死んでしまったら自分自身は痛みもなにも感じないのだろうけど、それはその人にかかわる人たちの存在さえも軽く扱っているような気がして、どうにも釈然としない気持ちになりました。


自分の意思でもって献体する行為は個人の意思を尊重したものなので、事情はどうあれ尊重されるべきだと思います。が、死にざまについて止むにれない思いで行政などに相談した結果、献体を薦められたらどう思うのか、なんだか二度殺されるような気がしてしまったのです。もちろん、ひとつの選択肢を示されただけだと思いますが、”いくら嫌でも、選択肢ないから”的なニュアンスを感じてしまったというべきでしょうか・・・。なんだか、無縁社会というのを変に実感してしまった感がありました。




「よく死ぬことは、よく生きることだ」という千葉敦子さんの著書を思い出しています。