なぜ信仰は必要なのか?【文字起こし】 | 千里の一歩大海の一滴

千里の一歩大海の一滴

このブログ記事は私の個人的な感想などです。
コメントは、受け付けておりません。

今一度、この疑問に立って信心の姿勢を改めようと思いました。

そのために、ただ漫然と見るのではなく、文字起こしをし、

自らが読み取っていこうと実行しました。

ソースは毎日御書でおなじみのマークアラブさんのサイトです。

随時、誤字脱字を修正しています。

毎日御書番外編:河合師範Q&A 質問に答える①

 

人生になぜ信仰が必要なのか。
なぜ信仰が必要なのかといえばより人間らしく、
より自分らしく生きるためであり幸福な人生を
実現するためだと言えるでしょう。
人間らしく自分らしく幸福な人生を生きるためには
人間とは何か?自分とは何か?を知らなければならないからです。
私たちは自分自身の生命についてあまりよく知りません。
そのためすぐに「そんなことはできない」とか「じぶんはダメだ」と思ってしまいます。
そういう意味で人間とは「自分で自分をダメにする生き物」であると

いうこともできるでしょう。
仏法では自分自身の生命を知らないことを『無明』といい、
それが人間の根本の迷いであり不幸の原因であると説いているのです。
日蓮大聖人は「無明は明らかなることなし」と読むなり。
我が心の有り様を明らかに覚らざるなり」(新714頁)と仰せになっています。
私たちは自分自身の生命がどれほど素晴らしいものかを知らないのですから
どんなに素晴らしい力を持っていても、
それを発揮することができないのは当然と言えます。

戸田先生はこう教えられています。
一切の人生生活は自己の生命の変化である。
ゆえに、よりよく変化して絶えず幸福をつかんでいくということが大事ではないか
されば自己自身に生きよ、いや、自己自身に生きる以外にないのだということを
知らなければならない。
あの人がこうしてくれれば良いのだとか、この世の中がこうであれば幸せなのだと言って
他人に生き対境に生きるということは間違いではないか。
しかし、人間の力というものは弱いものである。
自己自身に生きているといかに力んでみても
他人に支配され対境に支配されやすいものなのである。
さればいかに観念的に自己自身、自ら生きていると力んでみても、
それで幸福であると言えない場合が多い。
そこで自己自身の生命が最も強く、最も輝かしく、最も幸福であるためには、
日蓮大聖人の十界互具一念三千の仏法に生きる以外にないと
吾人は信ずるものである。

池田先生も「仏法は一人の人間の無限ともいえる可能性を認めることから出発する
仏界という最高の宝が自身の胸中にあることを目覚めさせ、それを引き出す方途を
教えているのです」と話され日蓮大聖人の仏法の実践によって、
この自身の生命を正常にして無限の力強き仏界の生命へと変革していく
何があっても一切を幸福へ幸福へと受け、用いていくことのできる人生となると
教えられています。
私たちの生命には無限の可能性が備わっていることを教え、
その可能性を引き出すための実践法を教えているのが、日蓮大聖人の仏法なのです。
大聖人の仏法を信じて実践するということは自分自身の中で最も強く、
最も輝かしい生命の働き、仏界を発揮していき、
どのような悩みや困難もゆうゆうと乗り越え崩れることのない絶対的な
幸福の境涯をひらくためなのです。
ですから仏法を信仰するということは、現実の生活を離れた何か特別なことをするのではなく
もっとも人間らしく、自分らしく生きるということであり、
自分自身の生命を強くきれいにしながら、自分の持っているさまざまな可能性や個性を
人生・生活に発揮して人生のすばらしさ生きる喜びを実感するための実践であるといえます。
牧口常三郎先生は「最高の価値を創造して最大の幸福を獲得する。
それが人生の目的である」と教えていました。
その価値の内容は美、利、善であり、感情で好きなこと(美)で、生活に得になり(利)
社会や人にとって善いこと(善)をたくさん積み重ねることが、
幸福の内容である、とされているのです。
そして大聖人の仏法を信じて人々を幸福へ導くための実践に励むことこそ
「大善生活」であり、最大の幸福を獲得する道は、
日蓮大聖人の御本尊を信ずる以外にないと人々に強くすすめられました。
戸田先生は我々は何のために​生まれてきたのか、それは衆生所遊楽と
法華経にあるように、遊びに来たのである。
だから人生を楽しまなければ、つまらないではないか。
御本尊を信じきったときに生きていること自体が楽しい、何をやっても楽しいという
人生になるのである」と話されています。
また、「世の中を幸せに楽しむためにはどうすればいいか。
お金も体力もそして生命力がなくてはならない。
それは、理屈や単なる努力だけでは得られない。
御本尊様を拝まなければ絶対にそうならない」と教えられ、
多くの人々を救われています。
牧口先生も戸田先生も、人生の目的は幸福になることであり、そのためには
大聖人の仏法を正しく実践する以外にないことを大確信をもって教えられたのです。
大聖人の仏法は、自分の外にある神や仏を頼って、助けてもらうというような
他の力に依存する「おすがり信仰」ではなく、
正しい実践によって自分自身の生命を拡大し、境涯を無限に開いていける、
生命の法則にのっとり道理に適った信仰なのです。
また、どんな悩みや困難にぶつかっても強い生命力と豊かな智慧を引き出して乗り越え
幸福へ向かっていける生活と人生を変革するため力のある信仰なのです。
自分が自分で思うようになるための信仰であり、生命を強くきれいにするための信仰であり
自分と生命と人生を大切にするための信仰でもあり、生命の尊厳を実現するための
信仰でもあり各人の幸福と社会の繁栄、そして世界の平和を実現できる信仰なのです。
もちろん信仰をしなくても生きていくことはできるでしょう。
しかし自分自身の生命を良く知らず持っている可能性や個性を十分に引き出すことができずに
自分でもどうにもならない生命の弱さや悪い傾向性(宿命)に振り回されていたのでは、
幸福な生活や人生を実現することはできないでしょう。
そこに正しい信仰が絶対に必要である理由があるのです。





 

 

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