今年の春に廃止されるJR三江線の歴史を昔の時刻表をめくりながら振り返ってみた。
 

 
 

 
 

 
 
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まず、1961年(昭和36年)の路線図から。(復刻版・交通公社の時刻表19619月号より)。
 
このように、当時は三江北線が石見江津(後に江津に改称)から浜原まで。三江南線は三次から式敷までとなっている。
 
建設されたは北線の方が早く、1937年までに浜原まで開通した。南線が開通したのは戦後で、1955年に式敷まで、1963年に口羽まで。(ウィキペディア参照)
 

 
 

 
 

 
 
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 ↑ 1967年の三江北線の下りの時刻。(復刻版・交通公社の時刻表19679月号)。全列車が石見江津-浜原間の運転で、本数は今より多い。
 

 
 

 
 

 
 
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 ↑ 1967年の三江南線の時刻。(復刻版・交通公社の時刻表19679月号)。列車本数は今より多い。三江線とは関係ないが、ページ右側の急行「ちどり」の案内にも目を引かれる。
 
三江線が全通したのは1975年。この年、山陽新幹線が博多まで開通し、西日本の鉄道は大きく変貌した。大動脈の新幹線と山間部のローカル線では比較するのに無理があるが、40年以上たった今、両者の明暗と落差はきわめて大きい。
 

 
 

 
 

 
 
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 ↑ 全線開通して5年後、1980年の時刻。(交通公社の時刻表19808月号)。
 
全列車が普通列車で、急行も快速もない。宮脇俊三は「最長片道切符の旅」で三江線に急行がないことを嘆いている。ちょっと長いが引用する。
 
 
 
・・・三江線全通が近づいたころ、せめて一本くらいは急行が走るのではないかと私は期待し、ダイヤの発表が待ちきれなくて、自分なりに急行のダイヤを考えた。それは三江線を経由する岡山-浜田間の急行で、車両基地を浜田とし、浜田発830分、江津発852分、石見川本、粕淵、口羽に停車して三次発1120分、福塩線に入って上下と府中に停車して福山着1310分、終着岡山着1400分というものであった。帰りは岡山発1555分、浜田着2120分となっていて、浜田、江津、三次の人びとが岡山、大阪、さらには東京へと行き来するのに最も便利な列車となるよう新幹線との接続にも気を配ったものであった。愛称名も「ごうがわ」と決めて、国鉄が発表する正解やいかにと心待ちにしていたところ、急行どころか直通列車すら走らないのであった。
 
 
 
宮脇俊三の落胆ぶりが痛いほど伝わってくる。国鉄は行き止まりの短い路線でない限り、全国各地に急行を走らせていた。同じローカル線の木次線や因美線には急行列車が走っているのに、三江線のこの扱いはなんなのか。国鉄当局ですら、三江線開通を歓迎するより、厄介なお荷物を背負うことになったと考えていたのだろうか。
 
それに三江線の時刻の掲載の仕方も三江線の格が低いように見受けられる。時刻表は基本的に上から下へ発車時刻が並ぶが、ここでは三次から江津に向かう列車は下から上に向かっている。編集の都合で短い路線を上下ひとまとめにするのはときどき見かけるが、100キロ以上の長い路線を上下ひとまとめにしてしる。こういうところにも三江線の存在感は希薄な感じがする。
 

 
 

 
 

 
 
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 ↑ これは国鉄民営化の1年前、1986年の時刻。(交通公社の時刻表19867月号)。三江線には珍しく愛称付きの臨時快速が運転されている。「波子ビーチ」という海水浴列車。三次から口羽まで各駅に止まり、その他はすべて通過という極端なダイヤ。もっとも、列車交換や運転士交代などの運転停車があるのは容易に想像できる。国鉄時代には全国的に夏になると海水浴の臨時列車が運転されていた。
 

 
 

 
 

 
 
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 ↑ これはJR発足から10年後、1997年の時刻。(JR時刻表19973月号)。江津発着、三次発着の本数が減っている。浜原-口羽間は国鉄時代と変わらず上下4本のまま。
 

 
 

 
 

 
 
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 ↑ これは2002年の時刻。(JR時刻表20026月号)。この頃になるとさらに本数が減り、曜日運転または曜日運休の列車が設定されている。
 
 
 

 
 

 
 
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 ↑ そして2017年の時刻。(JTB時刻表20173月号)。これが三江線の最後の時刻となった。ページの隅へ小さくまとめて掲載されている。
 

 
 
三江線廃止まで1ヶ月を切った。全通してから40数年で廃線になるのは鉄道路線としては短命だったが、最終列車が安全運行で終点に着くようにささやかに願っている。三江線の駅やレールの一部が保存されれば、将来再訪してみたい。