今日というか昨日というか、一ヶ月に一度の教師会議ということで、山形に来てホテルに泊まっています。
庄内と山形は、距離にして100キロくらいで、月山や湯殿山という険しい山に閉ざされているため、昔から交通の便は、悪く、高速道路(湯殿山~月山までは、今でも地道を走る)ができるまでは、新庄回りと俗に言う最上川沿いを行くルートしかありませんでした。
ですから、その頃は、山形に出るということは、庄内の人から言えば大変なことで、3時間くらいは有にかかったという状況でした。
それが、10数年前に高速道路が開通することで、大きく状況は変わったのですが、冬の月山越えは、庄内に住んでいる人でも危険性があり、できれば、通りたくない道路ではあります。
ですから、今でも全国有数の難所になっているわけです。
毎年、死亡事故もあります。
何ヶ月か前も、少し前の車が、大雨の中スリップで反対車線に飛び出し、慌ててハンドルを切って、トンネルの側壁に衝突して亡くなられました。
あとで、新聞の記事を見て、「あぁ、若い人だったんでなぁ」「ご家族は、どんな気持ちになるのだろうか」と心を痛めました。
冬でなくとも危険なのですが、冬は、なのさらです。
その恐ろしさは、庄内から湯殿山に差し掛かる頃から風景が一変し、真白の世界になってきます。
鶴岡を出るときは、晴れていても、天候も急変して雪が降り、吹雪になることもしばしばです。
道路も真白、側壁も真白、空も真白、そして、横殴りの雪!!
まったく、どこが道なのかもわからなくなります。
ですから、恐ろしい思いをしたことも数知れずという感じです。
カーブで滑って、センターラインを超えて、反対車線を向こうから走ってくるトラックとあわやというところまで行って、かろうじて、戻ることが出来て、事故を回避できたということもありました。
こちらに来た年、幹部さんたちから「先生、月山を越えるのは、気をつけてください。できることだったら、冬は、行かないほうがいいですよ!!」とアドバイスをいただきました。
しかし、私がそのとき思ったのは、この庄内で暮らす以上は、月山越えは、避けて通れないこと。それだったら、避けるより、練習することが大事ではないかいうことで、あえて、そのような場を避けませんでした。
それで、機会があるたびに、震えながらもチャレンジしました。
案の定、どう運転していいのかわからない瞬間も何度もありました。
今考えると、恐れを知らないということは、怖いことだと思うのですが、夜の月山越えも平気でしていました。
もう何回月山を越えたことでしょう。
たぶん、歴代の鶴岡教会長の中では、一番回数が多いのではないかと思うくらいです。
そんな中で、この8年間、一度として欠かすことなく、していることがあります。
それは、出発する前、精一杯の宝生(お賽銭のようなもの)をさせていただいて、真剣に祈ることです。
しているというより、これは、自然とそうせざるを得ないわけです。
そのときの心境は、何かがあって、瞬間、祈るのなら、スタートする前にしっかり祈っておきたいという思いもありますし、最高の心境で、最大の努力をするからベストの結果となるということから、宝生して祈るということが、自己ベストの心境にならせていただくことという信念からでもあります。
一言で言うと、「悔いを残したくないから!!」という思いが強いと思います。
そんな緊張感のある祈りは、毎回のことです。
しかし、私は、そんな中で、感じていることがあります。
それは、「助けられている」という思いです。
まったくの対処不能の状況には、なったことがないのです。
雪道の運転技術から言えば、私などは、未熟な方だと思いますが、たまたま前を走る車がいてくれたおかげで、助かったとか、ちょうど、短時間だけ吹雪がやんだときに通過できたとか。
進んで、月山越えをしている間に、どこにカーブがあるとか、どこが、難所だとか、ここは、注意しないといけないとか、今までは、思いが出てこなかったようなこともそのとき気づくようになってもきました。
ですから、帰ってきますと、感謝の気持ちが自然と湧いてきます。
その感謝の思いは、自分の力という範疇を越えてタイミングをいただいたことや人の手助けをいただいたことへの思いです。
たとえば、後ろを走る車が煽ってきたとすれば、心中穏やかに運転することが出来なくなります。そんなこともなく、よいドライバーが後ろについてくれてありがたかったとか、先頭を走ってくれている人は、大変緊張しながら走ってくれていることが多いのですが、先導してくれてありがとうとか。
風が静まってくれておかげさまとか。
そんなことの繰り返しの中で、思ったことがありました。
それは、月山を越えるときだけこんな心境になれることのおかしさについてでした。
それと、同じ心境で日々を暮らしていないという不思議。
だって、日々、何があるかわからないわけです。
別に事故は、月山だけで起こっているわけではありません。
事故じゃなくても、どんなトラブルがどんな形で起こってくるのかもわかりません。
いつ、病気が発生するかもわかりません。
そんな中で生きているのが、人ですが、常日頃は、心のどこかで、「私は、大丈夫!!」という気持ちがあることに気づきました。
この気持ちがあるから、「今の現状を正しく判断できなくなるのだなぁ」と思いました。
本当は、「先のことは、何があるかわからない!!」
「未来のことは、未知の世界!!」ということです。
ですから、思いもよらない展開で夢が叶うような展開もあるでしょうし、奈落の底に落ちるような展開もありうるという上での「白紙」「未知」の世界というのが、「今」という瞬間に対する認識なのだと思いました。
そんな新たな時、新たな事柄、新たな展開の中に身をおこうとするわけですから、怖れをもち、緊張感と勇気を持って、そこに臨むというような心境が自然と神に祈るという気持ちにさせられるのだと改めて感じました。
今、心境が変われば、言動も展開も人生の歩みも変わってきます。
そんな中で、「祈るという気持ちは、必然であり、本能なのだ」ということを再認識させられました。
何事もそうですが、同じことを同じように繰り返す中で、何かを感じるということが多いのではないかと思います。
毎回、違うことをしていると、目先だけを変えるわけですから、何か、変わったように思うかもしれません。
しかし、同じことを同じようにし続けている間に、実は、同じことのように思えていたことも同じことではなく、新たなことであることや、自分自らが、如何に工夫し、変化していくことが大事かということを知ることになります。
そのような意味では、月山越えに臨むにあたっての緊張感や祈りの繰り返しは、さまざまなものを得る心のトレーニングになったと有り難く思います。
何がいいトレーニングになるのかわからないですね。
そういえば昔、仕事もなく、家族を抱えて困窮していた人が、一大決意をして、毎朝午前4時30分に教会に参拝して、教会のお掃除をして朝詣をし続けることで、人生を立て直したということをお聞きしたことがありました。
やはり、続ける中で、大切なものを見つけたのでしょうし、得たのだと思います。
やはり、「トレーニングなくして結果なし!!」ということです。