さっそく、灘区、東灘区へと向かいました。
街の景色は、異常なものがありました。街角の民家がまったくの瓦礫の山になっています。そうかと思うと、ビルが傾いています。水道管が破裂して道路に水が溢れていたり。
あのビルは、被害がなさそうだなぁとよく見ると、途中の階がなくなっていたり。
恐ろしい風景にショックを受けながら進みました。
その空気は、今まで味わったことのない緊張感が街全体から伝わってきました。私は知りませんが、戦時中もこんな緊張感が漂っていたのではないかと思いました。
最初の避難所に着き、トラックを止めました。
さっそく、本部を探して、小学校の中に入っていきました。
たくさんの人がいますが、みんな、目が血走っています。
この地震がとても恐ろしかったことが雰囲気でわかりました。
「すみません。岡山から来た民間ボランティアのものですが、物資を持ってきました。リストがありますので、必要なものを選んでください。希望のものを降ろしますから」
「ご苦労様です。ありがとうございます。」
150品目のリストを眺めて
「これと、これと、これ…」
希望の物資をトラックから降ろしました。
そのとき、一緒に進んで手伝ってくれた人がいました。
一生懸命手伝ってくれますので、荷物を降ろし終ったあと声をかけました。
すると、「我々は、親分から行ってくるように言われて来ました」とのこと。
その言葉に、この災害の深刻さを感じましたし、世の中、捨てたものでもないなぁと思いました。
その後、次々と避難所を回りました。最初は、街中の避難所を回っていました。しかし、ちょっと、山の方の避難所へも行ってみようということになりました。
しかし、道がよくわからず、迷ってしまいました。
ここでもない、あそこでもないとトラックを走らせていましたら、道べりに一人のおばあさんが立っていました。
それで、声をかけてみました。
すると、「とても困っている」というのです。
避難所に行けば、食べるものも支給されることはわかっているが、そこまで、行くすべがないとのことでした。
とても気の毒に思いましたし、迷ったお陰で、ここまで来られてよかったなぁと思いました。人生にも迷うということがよくありますが、新たな巡り会いを生むチャンスということでもあるのだと思いました。
このあたりの人は、そのような人が多いということで、「必要なものがあれば、持っていってください」というと喜ばれ、近所の人にも声を掛けられました。
中継地点の本部で、注意事項として聞いた中に、避難所以外で物資を下ろさないということも聞いていましたが、避難所まで行けない人もいるわけで、かってではありましたが、判断しました。
行政がやることは、全体的観点から見て区割りをし、方向性を決めて実施するわけですが、どんな政策でも必ず隙間が出てくるわけです。その隙間に対しては、そこを埋めていく動きが必ず必要であり、それが、民間ボランティアや個人の役割ではないかと思いました。
岡山の緊急対策本部で最初に行ったとき、「今、物資として必要なものは、これとこれとこれ」と限定されましたが、現場では、まったくそういうことではなく、必要なものは、多種多様で、また、刻一刻と変化していくことも何度かの神戸への動きで実感しました。
「何か困っていることがあれば言ってください」ということでは、何も進みません。やはり、「何かできることありませんか? 」と現場に行って見て、実際に自分の目で見て、そして、聞いて、必要と思うことを進んでやるというスタンスの大切さを感じました。
これは、災害だからというより、何事に対してもこの姿勢が大切ではないかと感じた瞬間でもありました。(つづく)