これを書いたのは2010年あたりのこと







芸人日記

私はブログを書く。
ブログなんぞいろんなやり方があっていいと思う。
芸人の交遊録もいいし、日々食ったもんでもいい。
小粋なジョークや当たり障りのない時事ネタもいい。
別に他人が何を書こうがいい。
私には書く理由がある。






先日、私の息子が私立の幼稚園の受験に失敗した。
妻はひどく落ち込み、不貞寝し、周囲に当たり散らした。

それだけ一生懸命だったのだろう。
息子は屈託のない顔で
「がんばったよ」と言う。
私の息子は多分勉強もそんなに出来ないような気もする。
いやできるような気もする。
運動もできないような気がする。
いや出来るような気もする。
どっちでもいいと真剣に思う。
私は妻と口論になった。
まぁそりゃ不愉快だろうな。
妻の気持ちも分かる。

息子は毎日、これでもかってくらい「アンパンマン」を観る。
観まくる。
後輩の岩瀬という男がくれたアンパンマンの図鑑を大事しそうに抱えて、
沢山のキャラクターを言い当てるのが大好きだ。
夢中になって覚える。

そりゃジブリやピクサー、
なんなら普通の劇映画なんかを観て欲しいなぁなんて
思いながらも、
これはこれでいいとも思う。
夢中になっているだけでいいと思う。
だったら誰にも負けないくらいアンパンマンに詳しくなればいいだけだ。
集中したり夢中になれる才能があるなら、大丈夫だと思う。

たかだか人より1年、2年保育園や幼稚園にいけなくたって、別にかまやしないと思う。
妻は車の免許を取得して、どこか遠くの幼稚園に送り迎えしなきゃという。
地元にないのかと聞くと、地元は定員がいっぱいで入れないのだと応える。

私は子どもより日本のことが心配になる。
当たり前にできることはやらせて欲しい。
ちゃんと税金払っているのだから。


うちの息子はビビりで、面接も直前で怖気づいたそうだ。
まぁ、そんなところは私にそっくりで遺伝かなんかだろう。

私も小さいころ、他人の家に入れず、親戚の集まりのときは親戚の家の外で時間を
つぶしていた。
弟の手を繋いで。
私の父親は私が生まれてから4年ほどで蒸発した。
私の幼いころの一番の記憶は、母が5千円と包丁を握り締め、殴ってくる父に応戦しているところだ。
金を奪おうとする父と守ろうとする母。
まるでテレビドラマみたいだったんだなぁって後でのんきに思った。
でもそれも作り出した記憶かもしれない。
幼いころにおばさん、母の妹からよく聞いただけだからだ。
人と喋るのが恐怖だった私だが、今こうやってお喋りになれたのは、おばさんの影響だ。
おばさんはバスガイドをしていて、話を全て物語り口調で喋っていた。
だからかもしれないが歴史や国語は得意だった。
あの教科がなきゃ大学には入れてなかったと思う。

私が小さいころ、貧しくて母は死ぬことばかりを考えていたそうだ。
山口の下関から大分の佐伯に引っ越して、駅前のみなと保育園に私と弟は通った。
働いている母が迎えに来るのはいつも最後で、
滑り台を何回も何回も繰り返し滑って、時間を潰していたから、
私の尻はいつもあかぎれでいっぱいで風呂に入るとしみた。

でも保育園では何かをしてないと
気の毒そうにこっちを眺める先生の視線がいたかった。
だから一心不乱に滑り台をやった。
日が暮れても母が迎えにくることはほとんどなくて、残業が終わって母が滑り込みで保育園にやってきたとき、本当に嬉しかったのを覚えている。

後になって聞いた話。
母は一度一家心中を計画した。
自宅に遺書を残し、さぁ行こうと覚悟を決めたとき、
私がいないことに気がついた。
そんとき私は
佐伯にある唐辛子畑に忍び込み
唐辛子を一心不乱に食っていたそうだ。
母は一瞬私が狂ったと思ったそうだ。
私は腹が減っていたのだ。狂ったように唐辛子を食った。
やがて辛さに気づいた私はひたすら泣いた。
それを見た弟が泣き、母が泣き、母は生に執着する私にほだされた形で
死ぬことを諦めたそうだ。

私は覚えてない。

覚えてる話。
学生の下宿のようなアパートが住まいだった。
トイレも風呂も共同で。
隣の家から聴こえてくるピアノの音がいつもうるさくてたまらなかった。
母がスナックに働きに行った初めての日、私は泣いた。ひたすら弟と泣いた。
そのうち自分がしっかりしなきゃと思っても涙がこぼれる。
自分たちは捨てられたんだと思った。
それは毎日捨てられるんじゃないかと思ってたからだ。
だからそのときが来たんだと泣いた。
とにかく泣いた。
そんとき、見たことのない青年が家にやってきた。

「俺は母ちゃんのことよく知っているが、今日は仕事をしてきて夜中に帰ってくると言っていた」

そんなことを言ったのを覚えている。

そう諭されると一気に身体が疲労を帯びて、私ら兄弟はぐっすりと寝た。
翌朝、母が布団の中で寝ているのを見て、真剣に嬉しかったのを覚えている。

のちに僕は嘘というものは何かを救ったりするもんだと悟った。

その青年がどこに住んでいたかは、いまだによく知らない。
いたのかどうかも分からない。

後に私と弟はあれは宇宙人だったんじゃないかと
笑いながら語った。


貧乏暇なし。
働いていた母はどんどん気性が荒くなっていった。
女というのは環境でどんどん変化していくカメレオンみたいな生き物だ。

家族でファミリーレストランに出かけたとき、注文をとりにきたウエイトレスの態度が
とても悪かったことがあった。

母は少し怒っていた。
そのウエイトレスが注文を3回間違え、
謝りもせず舌打ちを一つ鳴らした瞬間、
母はそのウエイトレスに往復のびんたをかまし、
その場にお金を投げて、啖呵をきって出て行った。

私は恥ずかしくて恥ずかしくて、そのウエイトレスが間違えて持ってきた
ハンバーグを口にひたすら運んだ。


外に出てからも母は不機嫌だった。
私は恥ずかしかった。
辱めをうけたことに対し、母に怒りを覚えた。
なんでこんな人のとこに生まれてきたんだろう。

苗字が変わったり、給食費も払えなかったり、
家は貧乏で嘲笑の標的だ。

この特別感が本当に嫌で嫌でたまらなかった。


母が喋りかけるのを無視してスタスタと歩いた。
母はずっと悲しそうに私と弟と眺め、
泣きながら我々に謝り続けた。


私は反抗期だった。
反抗期と同時に他者とのコミニケーションがとれないことに気づいた。
私の発言はとにかくしゃくにさわるんだろう。
私は喋らないし、笑わない。
とにかく嫌なやつだった。クラスでも一人でいることが多かった。

これは今でもあんまり変わらないと思ったりもする。


私は大分の実家を出て行く前の朝、母から首を絞められ殺されかけた。
母はなぜそんなことをしたんだろう。人一倍愛情の深い人だった母がなぜそうしたのか、
上京し、明治大学に通いながらバイトと映画館に通いながら、
私の心には大きな黒い靄のようなものが必ず現れるようになった。

私のそばにいる女は皆優しく柔らかかった。
女を抱いて甘えてみることがこんなに気持ちよく心がやすらぐことなのか。
不思議だった。
女に私は聞いた。

「なぜ母親はそんなことをしたんだろうね」
女は優しく私の髪の毛をなぞりながらこう言った。
「ばーか、決まっているじゃない。東京にとられたくなかっただけよ」



母はひたすら必死に東京に住む私に金を送ってくれた。
駄目な息子だと見放すこともできただろうにだ。
私は考えた。
いろんな風に考えた。
母の生き方、母の意地、母の愛憎。

それは他人が作った歌やドラマや小説とは違う
私だけの母の姿だ。

そう思えるとなんだか笑えた。
一生背負っていくものがあるとしたら、その答えなんぞいらないから
ネタにだけしたいなって思った。
芸人になって、なんとやさしい世界だと思ったとき、そう思ったからだ。
ここでは悲劇が喜劇に変わる。
なんてやさしい世界なのだろうか。


排泄物のように垂れ流せば誰かが見てくれたりする。
ネタにすれば楽しんでくれるものがいる。

賛否があって当然だ。
でも少なくともここにいていいんだといわれているあいだは垂れ流しつづけたい。



誤解しないで欲しい。
私は不幸自慢したいわけじゃない。

だって幸せだから。
ほどほどに満たされず、
ほどほどに喜びが定期的にやってくる。

いい人生を送れていると思っている。


だから分からないことや、耳をふさいでなかったことにしたいこと、
全部笑いにできないかと思うだけなのだ。


とにかくとにかく
笑っているならばきっときっと大丈夫だ。
そう心底思うのだ。









臆病ものの息子は面接会場に入る寸前、怖くなってその場にへたりこんだそうだ。
そんとき、とっさに妻がもっていたチロルチョコを差し出した。
そのチロルチョコは私のライブに足を運んでくれる
お客さんが外側のカバーをダイノジの写真でプリントした
オリジナルのチロルチョコで、それをたまたま妻が所持していたのだ。

妻はこう言った。

「のんちゃん(私のこと)がついててくれるって」
すると涙目の息子は
「うん、がんばる」
と弱弱しくつぶやき、中に入っていったそうだ。
面接官の
「今日は誰と来ましたか?」
という質問に
「のんちゃんとママです!!」
と、大きな声で答えたそうだ。
面接官はのんちゃんって誰ですか?と聞き返し。妻が私のことだと伝えると、
少し諦めたようにため息をついたそうだ。



それで落とされたんならいいっしょ(笑)

いいネタ一個もらったもの。
俺は妻の作った飯を食いながら
日本シリーズを見ていたとき息子にこう言った。

「くよくよすんなよ」

するとにらみをきかせて息子が
私にこう言った。

「俺様はバイキンマンだぞ!!
お前をいつかやっつけてやるからな!はいふへほー」

すぐさま私はこの自称バイキンマンをくすぐりまくって懲らしめた。

結論:我が家のバイキンマンはむちゃくちゃ弱いのだ。




私はブログを書く。
日々、無駄なことから、ムキになってることまで。
衝動に任せて書く。
自分が正しいなんてまったく思ってない。
正しいと思ってないやつが
何か人様に表現することほど下品なことはない。
そんなことは分かっているんだ。
でも、分かってても書く。
全てを笑い飛ばすために書くのだ。

私は今日も生きている。
君はどうだ?