2009年の暮れ。

ダイノジの大谷は
もう絶体絶命のとき。



このとき、24日にフジファブリックの志村正彦さんが死んだ。

仕事がないから
うどん屋をフェスティバルでオープンして、僕はうどんを売っていた。

なんか変えようと思っていた。
邪魔なのは僕のプライドだけ。


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アイラヴユーを
月が綺麗ですね

と訳した夏目漱石なら

ロックンロール

をなんと訳すだろうか?

高校生のころ
ずっと考えていた。

「で、どういう意味ですか?
このちゅど~んって?」



北海道UHBで、初めて僕らの名前のついた冠番組「ダイノジのちゅど~ん」、この番組を作ってくれていたディレクターの高口さんとの最初の会話がこれだった。

僕が言う。

「ちゅど~んってうる星やつらであたるとかが飛んでいくときの擬音なんですが、

なんていうか…ロックンロールみたいな意味です」

「(笑)かっこいいっすね、ちゅど~ん」

「えぇかっこいいんです、ちゅど~ん」

タカトシの推薦で出してもらった北海道UHBの昼番組のスピン企画として始まった「ダイノジのちゅど~ん」はそんな始まりだった。







この僕と同い年の才能ある男が、
昨日30日の
朝に死にました。



末期のガンでした。







僕はその時
ロックフェスティバルで
うどんを売っていました。





不況の煽りをもろにくらい「ちゅど~ん」は春で打ち切りになり。

その最後のロケ地は私が大好きな北海道の街・函館で。

そんときにはすでに末期ガンの告知を受けていて、

もって年内と言われていたそうです。

高口さんがそんな状態だったとは全く知らなかった僕らが、

その事実を知ったのは10月のこと。

高口さんは病床から抜け出し、局のプロデューサーにかけあい、

人生最後の仕事をやらせて欲しいと言った。



ダイノジで最後一本バラエティーをやりたい。



それが一回きりの
28日北海道でオンエアされた。
ちゅど~ん特番のあらましだ。



私は悩んだ。

末期ガンで死んでいく戦友を前にどれだけふざけれるのか、と。

果たして自分なんかに何ができるのかと。

私はカメラが廻ったら

こう言ってやろうと願った。



私「いやー今日は末期ガンのディレクターがいまして」

大地「ばかやろう」

・・・・・・・

なんかいかにも芸人っぽいじゃない。

つらい涙を笑いにしようとして、芸人の鏡みたいな。

みんなが好きな芸人像でしょ?

ポーズだよ、そんなもん。



言えなかった。

全く僕は言えなかった。

気の利いたことも言えず。

いつも通りのことを喋り。
いつも通りのちゅど~んの収録にしようとした。

ガリガリに痩せて、半分目が潰れ、

抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け、

看護士を傍らに杖をついてこちらを見る高口さんを見ながら

私は平静を装った。

私は二流だ、いや三流だね。

芸人としての美しさがない。



18日の収録。
その中身は世界一になっても売れなかったダメ芸人ダイノジが、

札幌を歩く道民の悩みを聞き、自分らのダメなエピソードを披露しながら、

勇気づけるというもの。



私にはまるで高口さんが私に何かを託しているような気がした。



私が勇気づけなきゃいけないのは目の前の高口さんではないか?



頭の中をいろんな言葉が交錯し私は何度も言葉を濁した。



すると高口さんが僕に耳打ちした。



「いつも通りで。

いつも通りの大谷さんでいきましょう。今、喋りたいこと喋りましょう」



そこからはなんか気が楽になって。

くだらないボケや大地いじりや、時に暑苦しい語りの連発になった。



いや面白い。

奇跡のような素人が相変わらず引っ掛かるし、

高口さんのカンペは相変わらずさえているし。

現場が大きな笑いに包まれた。



このマイナーな番組がいろんなところで口コミで広がりつつあると聞いた。

終了後、反対する声が多く局に来たとか、作家の相沢君がちゅど~んやってたと言うと、

いろんな現場で称賛の声があがったり、

何より嬉しいのは「水曜どうでしょう」を担当していた方が恐怖を感じたと

言ってくれたことだ。



たまたま観た東京のテレビ局の方が僕ら

ダイノジの素人イジリの上手さに舌をまいたなんてのもあった。



それもこれも高口さんの演出だった。



私は高口さんのカンペを読んでいれば必ず

面白い方にいくことを知っていた。



私はラッキーだった。

今になって語り継いでくれる人がいる。

だからモノを作るやつらは一生懸命やらなきゃダメなんだと思う。



どこで、誰と、繋がるのかわからないのだから。





18日の撮影が終わっても僕は何かを言えたわけではない。



ドラマみたいなキザな台詞もでない。



あんなもんは一流の脚本家だけの特権だと思う。



ただただ 私は、



”どうかお元気で”



とだけ高口さんに話しかけ名古屋に向かった。



UHBの鈴木プロデューサーから高口さんの死を伝えるメールが来たのは

30日の昼過ぎ。



28日のオンエアを病室で観終わり、一日おいて息を引き取った。



オンエアを見届けホッとした表情だった、と。



編集もその部屋でひたすら一人でやり続けた

高口さんはオンエア中ひたすら笑っていたそうだ。



メールを受けとった私は一瞬頭が真っ白になった。



フラフラと幕張メッセのトイレで洋式便器のある場所で泣いた。



うんこをしながら泣いた。



するとその扉を開ける

ピンクTシャツと

短パンのキッズが

一人立っていた。



そう私は鍵を閉めるのを忘れたのだ。



彼の気持ちになると驚きが分かるだろう。

洋式便所開けたら中年が泣きながらうんこしてんのだ(笑)



なんでか決まらない。

俺はいつも決まらない。

ダメな中のダメ芸人だ。



外ではキッズ達が、さっきのダイノジじゃねーか?

とか言っている。



高口さん、あんた

いたずらがすぎるよ(笑)



うどん屋に戻り顔を洗った。



隣のMOON Stageで大好きな

曽我部恵一バンドの「キラキラ」が聴こえてくる。



曽我部恵一の叫ぶ



ロックンロール



という声に我に返る。



















高口さん



あなたにもう一度会いたかった。



会うつもりだった。







残されたものの

使命はひとつ。



楽しむこと。

しかも必死に。
人生を生活を。

ちゅど~んをやっているとき、北海道でDJをやったときのことだ。

高口さんがスタッフと会場にやって来た。



途中から面白がってカメラを廻しはじめた。

なんで撮影始めたのですか?と私が聞いたら、

「だって必死なんだもん、大谷さん(笑)」

ときた。





僕は必死だった。



東京で

普段はダンサーが煽ってくれるところ

全部自分がやらなきゃいけない。



気づいたら汗びっしょりで

僕は動きまわり喋りまくっていた。



そんな自分が滑稽でグッときたと言ってくれた。

だから約束した。

全て必死になりましょう。

面白いならば必死にやることがルールにしましょうと。



楽しいことは字と違って楽じゃない。



少なくともダイノジは楽したらつまらない。



高口さんは僕のblogを病室で熟読してくれていた。



病魔との闘いというやっかいな現実を忘れさせてくれると言っていた。

私の息子が受験を失敗した回の話特にが好きだと言っていた。



あれも私と私の家族の失敗談だ。



おそらく高口さんはそれもこれも含めて人生なんだと

言いたかったのかも知れない。

人は真面目に

必死に生きることでしか”楽しい”をもらえない。



勝ち組とか負け組とかすぐに人は言いたがるが、

人は負けなきゃ全て最後は勝ち組だ。



負けなきゃ最後は勝ちなのだ。



現実を見ろと言われても、

自分にとって無駄な現実を見ることなく一生を終えれば、

その虚構がその人にとって現実になる。



バスに降りなければ、

走り続けることさえすれば、

人はみんな自分の思う生き様と栄光を手に入れる。





これには覚悟がいるし、リスクがいるし、

別のやっかいな現実を受け入れなきゃいけないときもある。



だから必死にやる。

もがいて足掻いて抗って、楽しいことを誰よりもするんだ。



周りに合わせず自分だけの楽を追及する。

それをロックンロールと呼ぼう。

いや

それだと

カッコつけすぎか。





それを
ちゅど~ん
と呼ぼう。



高口さん

あんた一番ちゅど~んだったわ。



面白かった。
楽しかった。



またやろう。
必ず
やろう。



それまでゆっくりお休みなさい。



あんたの分までなんて口が裂けても言えないけど、

私は私を生きるつもり。



また逢う日まで。

さようなら。



ちゅど~ん







合掌