に私の名前が。
猛烈に恥ずかしい。が、嬉しい。

こんなのは売れるまえのオードリー若林君のblogで褒めていただいた以来の嬉しさだ

(と、さりげなく自慢・・そんなことを心のよりどころにしてる俺って・・・)

私は東野幸治さんの隠れファンと書いたがそういう若手中堅芸人は本当に多い。

私の周りにもよくいる。

そこで今回なぜにプロフェッショナル芸人どもが東野幸治さんにシンパシー抱いてしまうのかをみんなで討論してみた。

話は変わるが僕は友近という芸人が好きだ。

良質な笑いは良質なあるある感だと思ってて、それを見事に体感しているから。

同じ理由で劇団ひとりさんのネタも大好きだ。

実際には見たことないがこういう人いそうだな、

自分自身は感じたことないがこんな空気、

この気持ちには共感してしまうみたいなの。

デビューしてからシチュエーションコントやベタな漫才を繰り返していた自分らが

遊び半分で作ったネタに「よしもと新宿二丁目劇場芸人」というのがあった。

ありがちな設定だがゲイ二人の漫才師がしゃべくり漫才をやるというものだ。

当時よく二丁目のゲイバーに飲みに連れていかれてて思いついたネタで

ディテールはもろにそこのお客さんの真似をしたもの。

その中の台詞で

「私たちよく聞かれるの、いつ男好きになったんですかって?いい?覚えてて!

オカマって突然なるもんなのよ!」

なんてことない台詞だったのにこれがさざ波のようにゆっくり会場に広がり爆笑になったとき

鳥肌がたった。

なんていうか言い方とか動きとかが合致したうえで”言いそ~”っていう空気感がじわ~と拡がったのだ。

これがやっぱりすごいなぁっと大地と言い合った。

友近の物真似はそういうのの塊だと思う。
ダウンタウンさんの傑作コント「河童の親子」なんかもそうだと思う。

子どもの前でだけは強くなる小心者の父親、その虚勢感が誰にとっても経験してなくても

あるあるなのだ。

あと個人的に思うのはそういうあるある感にはちゃんと悪意がなきゃいけないと思ってる。

適度な距離感、客観性という奴だ。

「サイタマノラッパー」の日本語ラップへの距離感がそうだろう。

でも悪意が全面に出ると笑えなくなる。

若手に変な毒だけで面白いと思って一方的になげかけるのがこれ。

僕も未熟な毒だけの笑いをやって得意になって、

肝心な笑いがイマイチなんてことがあったりした。

そういうあるある感をしっかり笑いにするにはやっぱり対象にどれだけ愛情を注げるかどうかだと思う。

友近のネタなんかはこのバランスが見事でいつもいつも唸る。

その人の恥ずかしい部分を暴きだしながらその人への愛情が垣間見えるところが秀逸なのだ。

だからその対象の人も笑うだろうなぁって思う。

 

東野幸治さんも底辺にしっかり悪意がある。

しかも根が深そうなの(笑)

でも同時に物凄い芸人愛を感じる。お笑い愛というか。

この愛ってのは厳しいそれじゃなくて、まるで中学二年生がお笑い芸人を

夢中で好きになっているような童心さのそれ。

だから押し付けがましくない。

「あらびき団」とか東野さんのあのコメント込みで僕はいつも爆笑していた。

行列でいじられるときの返しなんかいつもメモをとったりする。

そこには俺がなんとかしてやるとかみたいな義侠心がない(笑)

いや、ないと言い切るのはどうかと思うけど、なんかないことが凄いと思うのだ。

キャッキャッしてる。

笑いながらキャッキャッしてる。

あれが本当に凄いなぁって思う。

東野さんと僕の大好きな蛭子さん、

つまり本物のそういう人と延々喋っててほしいなぁって。

そういうライブあったらいの一番にチケットを購入して

最前列でかぶりつきで観たいなぁって思います。

受けも返しも全部面白いよなぁっていつも飲み屋で悶々としながら考えてる。

あんな人に憧れるがどうせ自分には無理かなと思う。