この土日、日本糖尿病教育・看護学術集会に参加していました。(発表もしてきました)
そこで、とても心に残ったものを紹介します。
この話を聞きながら、インスリンをする患者さんと、フォリスチム注射をする自分など、重ねながら聞いていました。
ランチョンセミナーの「インスリン導入に当たっての心理的抵抗について」皆藤章先生 京都大学大学院教育学研究科
インスリン注射は、身体に必要で、生存に必要な事であり、痛みも感じないのに、どうして患者さんは抵抗を示すのか。
という問題について2歳発症1型糖尿病の患者さんが大人になってからインスリンを拒否するようになった事例を通して、考えられることを、話してくださいました。
幼児期は、発達段階として、基本的信頼感を獲得していく時期です。
この時期に、大好きなお母さんから、非常に辛い注射を打たれること。
けれど、お母さんは自分のためにしてくれていることはわかる。
この、1つの行為に2つのメッセージ「痛いことをする」「自分のためにしてくれている」が一度に発せられると事を「ダブルファイン的人間関係」と言い、この人を信じていいのか、信じてはいけないのかがわからなくなるそう。
この体験は、幼児期だけにとどまらず、極めて深いトラウマ的体験として心の奥底に閉じ込められて、消える事はない。
人間の心は、「意識出来る部分」=「コントロール可能な世界」と、「無意識の部分」=「コントロールできない世界」に分かれている。
この、ダブルファイン的人間関係の体験は、無意識の世界に閉じ込められてしまう。
次に、学童期。
学童期は、外に向かってエネルギーを放出する時期。
仲間意識の高まりと共に孤立感を避けようとする傾向がある。
なので、この時期は、友達の前でも平気でインスリンを打てたりする。
学校から自宅へ帰ると、「お母さん、あのね」と、学校であったことをいっぱい話したがる。
それが、思春期に入ると、外的な心のエネルギーが内側に向き、自己に感心を向けるようになる。
インスリンをしている自分を
「こんなことをしないといけない自分って意味があるのか」
「こんな注射ばかり打っている自分って何なんやろう」
と。
そして、お母さんが「今日は何があったの?」と聞いても
「別に」
と言うようになる。
この「別に」は、正常に成長している証拠だとか。
そして、この患者さんは、最終的に生きるために必要なインスリンを拒否するようになった。
人間は、「異質」なことをを受け入れにくい。
心の中に異質なもの(インスリン)を排除することで、心の平穏を保とうとする。
人間にとって最も異質なものは「死」であるため、普通は死なないように、努力しようとする。
けれど、「死」への親和性が強まると、「死」よりも「インスリン」の方が異質なものだと感じてしまうようになることもある。
そして、インスリンを拒否する。という結果になる。
また、他の側面から。
インスリンの注射は、痛みはほとんど感じない。(不妊治療のフォリスチム自己注射と全く同じです)
皆藤先生は
「痛みが軽減すれば注射が楽になると、医療者は思っていませんか?」
と言われました。
体の痛みは軽減出来ても、、、、、、
心の痛みは軽減できません。
今まで生きてきた中で、注射を受けた体験全部が「痛みの体験」として心に残っているので、針の痛みがいくら軽減しても、注射の痛みは残ってしまう。
インスリン注射をし続けて生きる事。
「異質」を抱えて生き続けるとどうなるんだろう。
この答えは、わからないそうです。
答えはわからないけれど、インスリン注射という「異質」を抱えながら生きている患者さんであることを知りながら関わることで、声のかけ方とか、心配りが看護者として、少しは変わるんじゃないかと思います。
この話は、インスリンに限ったことではなく、不妊治療も、人間にとって「異質」なものには違いありません。
ちょっと、こういう事、勉強してみたいですね。
今回のレポは、私の理解の範囲なので、間違っていたらゴメンナサイ。