まず今のロシア人やその他スラブ人、これは言うまでもなく東欧にいました。その中で、スラブ人は3つに分れました。
一つが西スラブ人でポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人らで主にカトリックを信奉していました。二つ目か南スラブ人、主にバルカン半島に住んでおり、正教会を信奉していた。そして三つ目が東スラブ人、これは今のロシア、ウクライナ、ベラルーシらへんです。宗派はもちろん正教会。そして東スラブ(人)はルーシと呼ばれていました。これがロシアの原流です。今からルーシについて解説していきます。
12世紀に書かれた原初年代記によると9世紀中頃、ドニエプル川中流にルーシの諸部族が互いに争っていたので海の向こうのヴァリャーグに使者を送り、リューリク、シネウス、トルヴォルの三兄弟に来てもらい、ルーシを統治させた。リューリクはノヴゴロドを拠点とし、2人の弟の死後、1人で北ロシアを統治したとしてる。また、配下のアスコルドとジールという兄弟は860年代にビザンツ帝国に遠征し、その途中、当時ハザールが支配していたキエフを奪取しそこに根を張った。話を戻しますが実はリューリク、デンマークのバイキングのドレスタッド公ロリクと同一人物説があるのですが、真相は今となっては不明です。https://en.wikipedia.org/wiki/Rorik_of_Dorestad
そもそもリューリク自体、彼が活躍したとされる時代の200年以上後に書かれた原初年代記に記録されたのが初登場なので詳しいことはよくわかってなく、架空の人物という説もあるようです。まぁ繰り返しますがこんなものもう確かめようがないので次にいきます。
リューリクは879年に死去し一族のオレグが後を継ぎました。オレグという名は北欧の名前のヘルギに由来してるといい、さらに彼は882年、彼は南下してアスコルドとジールの兄弟を殺害し、その地に拠点を移したという。これがキエフ大公国の始まりである
オレグは907年にビザンツ帝国に遠征し同年、ルーシ・ビザンツ条約という通商関係の条約を締結、911年にも再び同様の条約が結ばれた。
オレグの死後、リューリクの遺児のイーゴリ(1世)が912年、あるいは913年頃にキエフ大公国を継ぎ、941年と944年の二度にわたってビザンツ帝国の首都のコンスタンティノープルに遠征した。944年、三回目のルーシ・ビザンツ条約を締結した。これもまた、通商関係の条約であった。
イーゴリ時代のキエフの領土はこのようにして拡大していったが、悩みの種が一つあった。そう、遊牧民である。その代表がドレヴリャネ族で、キエフからね厳しい貢納に耐えかねて945年についにイーゴリを殺害してしまった。
イーゴリには妻のオリガとの間にスヴャトスラフという幼い息子がおり、彼が後を継ぎ、母のオリガが摂政となった。オリガはドレヴリャネ族に徹底的に復讐をし、夫を殺害したドレヴリャネ族を身分を高い者を風呂に閉じ込めて焼き殺したという。またオリガはノヴゴロドに行き、税制を整備、さらに957年にコンスタンティノープルに赴き、キリスト教の洗礼をうけた。ただし、オリガの洗礼は個人のしたこととされ公式に国家として受洗したのはウラジミール大王の治世の988年とされている。
一応ここまでのリューリク朝の家系図をのせときます(手書きなので下手だったらすみません...。)
さて今回はここまでです。次回はスヴャトスラフの治世について本格的に触れます。


