今回もキエフ大公国の発展を記していきます。ぜひ読んでください( ◠‿◠ )。

一応キエフ大公国関係の系図を下に貼りますのでそちらを見てからこの記事を読むのがお勧めです。親子関係、兄弟関係を理解してから読んだ方が面白いですので手書きですけど一応。



前回キエフ大公スヴャトスラフの母オリガがキリスト教を受洗したとこれまで話しましたが結局その息子のスヴャトスラフはキリスト教を拒否しました。理由として従士団に顔向けできないことなどがあったためでした。オリガは985年に神聖ローマ皇帝オットー1世に聖職者の派遣を要請、オットー1世はキエフに使者を派遣することで返答したがこの使者はスヴャトスラフに追放されてしまいました。


スヴャトスラフ1世の母オリガ


スヴャトスラフ1世


このスヴャトスラフ、戦う公として今に伝わるほど勇敢みたいで、もしかしたら母のオリガの凄惨な性格を引き継いだのかも...、とかんくぐってしまいますね。


スヴャトスラフ1世が具体的にどのような人かといえばオカ川からヴォルガ川のあたりまで領土を広げて、965年にハザールを倒すことに成功してその後キエフ大公国はバルカン半島の方面に攻撃を開始、ドナウ・ブルガールを滅ぼすことにも成功しました。ドナウ・ブルガールの征服後はビザンツ帝国を攻撃、したんですけどスヴャトスラフの快進撃はここまででした。


なんとこの時のビザンツ遠征は敗北してしまいました。971年にビザンツ帝国と講和条約を締結、この条約では二度とビザンツ帝国を攻撃しないことを誓わされました。スヴャトスラフは帰り道にドナウ川流域のペレヤスラヴェツに遷都しようとしたんですけど遊牧民のペチェネグ族に972年に襲撃されて戦死し、結局これはかなわず。まさに最初から最後まで英雄っぽさがありましたねぇ。


赤い線がスヴャトスラフ即位時のキエフ大公国の領土。オレンジ色の線が972年の領土。


スヴャトスラフにはヤロポルク、オレグ、ウラジーミルの3人の息子がおり、キエフ大公は長男のヤロポルクが継承、そしてウラジーミルはノヴゴロドを継承しました。ただヤロポルク、結構過激な性格で弟の1人オレグを殺害しちゃいました。これに驚いたウラジーミルは977年、ノヴゴロドから亡命してしまいました。このウラジーミル、かなり粘り強くヴァリャーグを説得して3年後にヴァリャーグを引き連れてノヴゴロドに帰国、そのままキエフに攻め入り、兄のヤロポルクを殺害してキエフ大公になります。


ヤロポルク1世


殺害されるヤロポルク1世


ノヴゴロド建国1000年周年を記念して作られたウラジーミル1世の像。


ウラジーミルも父と同じくよく遠征をし、東スラブ人のラジミチ族、ヴャチャチ族を征服、西のポーランド、北方のヤトヴャギ、南方の遊牧民のペチェネグ族らと戦いこれらを征服、あるいは撃退しました。


ただウラジーミルの治世で最も重要な出来事がありましてそれはキリスト教の受容でした。確かに彼の祖母のオリガはキリスト教の洗礼を受けたんですけど、個人的な出来事であって、国家として本格的に受け入れるのはウラジーミルの時でした。987年にビザンツ帝国で反乱が起きており、皇帝バシレイオス2世は妹のアンナを与えることを条件にキエフに支援を求め、ウラジーミルはこれに応じて兵を派兵し、反乱の鎮圧を助けました。

けれどもバシレイオス2世は約束を履行しませんでした。


...。いや!約束は守れやー!


そのため、ビザンツ帝国が領有するクリミア半島に攻撃しかけ、約束を履行させました。ただし、アンナと結婚する条件としてキリスト教への改宗を求められました。ウラジーミルはこれに同意し、しかも原初年代記いわくそれまでの異教の神の像を引き倒し、ドニエプル川にすてキエフの住民全員に集団洗礼させるほどの徹底的にやったらしい。ウラジーミル、どんだけアンナと結婚したいのよ( ´ ▽ ` )...


それと有名な話として、ウラジーミルはイスラム教、ユダヤ教、キリスト教のそれぞれのことを調べさせ、お酒が飲めないからイスラム教に改宗を拒んだという話がありますw


1015年にウラジーミルが亡くなるとルーシは内戦に陥り、長男でキエフ大公のスヴャトポルクは無抵抗の弟のボリスとグレブを殺害しちゃいました。弟殺しなところが叔父のヤロポルクと似ちゃってるよ...。そのため、2人の弟は後に正教会によって聖人とされた一方でスヴャトポルクは呪われたという渾名をつけられてしまいます。スヴャトポルクはこの後もう1人の弟のヤロスラフ(賢公)に敗れキエフ大公位を奪われてしまい、その後スヴャトポルクはポーランド軍を引き連れて一時キエフ大公を回復しましたが最終的にヤロスラフに再び敗れボヘミア(チェコ)に亡命して二度とキエフに戻ることはありませんでした。結局スヴャトポルクはもう1人の弟に殺されるとこれまで叔父ににるなんて( ´Д`)y~~


スヴャトポルク1世の肖像画


ボリスとグレブの肖像画


ただしヤロスラフの弟のムスチスラフ(というかウラジーミルの子供が多スギィ!)1023年に反乱を起こされたため1026年にキエフ大公国をドニエプル川を境に分割するという手法で混乱を抑えました。どうもヤロスラフはムスチスラフとの仲は険悪でないみたいで2人は共に1031年にポーランドに侵攻しました。1035年にムスチスラフが亡くなったため、再びキエフ大公国を統一しました。1036年にはペチェネグ族との戦いに勝利し以後しばらくは遊牧民の脅威は去りました。その後は1043年にビザンツ遠征をしますがこれは失敗してしまいました。


ヤロスラフ1世(賢公)の肖像画


ヤロスラフは文化政策にも熱心で聖ソフィア教会や修道院を立て、多くの書記を集めてギリシャ語の聖書をスラブ語に翻訳させました。その他にもキリル文字の導入、イコン画のウラジーミルの聖母がもたらされました。また、キエフに府主教を設置して1051年にロシア人のイラリオンを府主教に任命、コンスタンティノープル総主教座から自立しようとも言われてます。イラリオンは「法と恩寵に関する説教」を著してルーシのさまざまな水準が高いことを内外に示すことに成功しました。


今日はここまでです。長くなったので疲れました。次回からは分権的傾向の時代です。