お宿「川美屋」さんから歩くこと5分で名鉄 犬山遊園駅 に到着し、ここよりひと駅戻って「犬山駅」で下車しました。

 

     

 

と言うことで、前回の続きである「名古屋の旅」も二日目に入りましたので、本日は皆様を 博物館 明治村 へご案内してまいりましょう。

 

 

 

明治村への公共交通アクセスは、犬山駅東口より 岐阜バス に乗車しておよそ20分/540円也ですが、始発便の8時45分発は相当混雑しており、かろうじて着席できたものの、ほぼ全員が終点の明治村まで乗車しました。

 

     

 

※元あった名鉄バスは乗務員不足で撤退し、後に同系傘下の岐阜バスが当路線を引き継いでいます。

 

 

 

同博物館は戦後の経済成長に伴い、その蔭で失われつつある明治時代の価値ある建築物などを移築して公開しているもので、敷地は初代館長の同級生でもある 名鉄 の当時の会長が提供したとされています。

 

ただ、USJやTDLと違って博物館という立ち位置から、開場前にゲートに並んだのはバスから降りた数十人の乗客のみで、いわゆる観光地特有の華やかさは微塵も見られませんでした。

 

     

 

 

 

さて、開場と同時に訪れたのは、鉄道好きであれば絶対外すことが出来ない、明治天皇がご乗車された 料車 でございます。

 

     

 

時の技術の粋を結集してつくられたこれらの車両は今見てもその重圧感に圧倒させられますが、時の天皇皇后両陛下をお乗せになり共に全国各地を巡られたことでしょう。

 

     

 

 

 

と、ここで東京ドーム21個分の約100万平方メートルにもおよぶ敷地を効率的に巡るため、毎度毎度練りに練った行程で進んで行くわけですが、下記に示す通り 一丁目から入場して順に五丁目を目指して 歩みを進めてまいります。

 

     

 

まずは一丁目にある 三重県県庁 の建物は、明治12年に完成し昭和39年まで使用された後に当地へ移築されました。

 

     

 

和洋折衷 と申しましょうか、日本の大工さんが洋風スパイスを取り混ぜた建築であって、その専門家では無いため詳しくは存じませんが、知事室のつくりは現在でも通用する品格が感じられますね。

 

     

 

 

 

少し進んだ三丁目にあったのが、 幸田露伴が住んでいた借家 で、こちらには案内係の方が常駐しており、歴史を交えた細かな解説で内部の特徴などを説明してくださいました。

 

     

 

またこの区域には 品川灯台 という駅がありまして、京都市電が往時のまま動態保存されていて、ちょうど折返しだったため ポール回し (集電する屋根上のポールを180度回転させる) を拝見することができましたが、500円也を支払えば実際に乗車することも可能なんです。

 

     

 

 

 

続いて四丁目に入りますと、まずは美しい 秋桜(コスモス)畑 にお出迎えいただき、ほっこりとした気分に浸れましたが…

 

     

 

その先にあるのが 宇治山田郵便局 で、実際に窓口があって郵便と貯金が扱われるようですが…?

特筆すべきは定形サイズの封書を投函しますと、10年後にの自宅に届くサービスを実施しています。

 

     

 

ただ、本来ですとこの近くにある停車場から、往時のSL(蒸気機関車)に乗る予定でしたが、あいにく当日は運休のようでしたので、30年以上前に訪問した際のスナップを載せておきましょう。

 

     

 

 

 

と言うことで、とり急ぎラストの五丁目までやってまいりましたが、次はこちらの 聖ザビエル天主堂 をご覧いただきましょう!

 

     

 

小学校の音楽室に似た香りが漂い、ステンドグラスが煌びやかな光を放つ凛とした空間ですが、これまでは街のシンボル的な建物ばかりだったものの、この一角には庶民的な 床屋や銭湯 なども軒を連ねていて、一種雑多な雰囲気に包まれます。

 

     

※床屋の店内

 

     

 

     

※銭湯の浴室

 

 

 

この時点で時は11時近くになったこともあり、晴天も手伝ってか少しづつ観光客が増えてきた印象がしましたが…

 

やはりと申しましょうか、前述のUSJやTDLと異なり、老若男女いかなる層であっても クルーがゲストをもてなすという演出は全くありません ので、要は楽しみ方を自らが考えて自らで行動しなければ全く楽しくないのです。

 

     

 

ですから、それらが 動の空間 とすれは、こちらは 静の空間 であって、ピーピーギャーギャーと騒がしい若年層はもちろん皆無ですし、小さな子供さん連れのファミリーもほぼほぼ見かけませんでしたので、どちらかと申しますと私と同世代か少し上の層で、かつゆるりと回遊したい方に合っている印象でした。

 

他方、入場当初はその珍しさから興奮してしまいましたが、これまた景勝地の絶景と同じく、何度何度も同じような建物ばかりを見て回りますとやはりマンネリ化は避けられませんから、良い思い出としては残るんだけれど、心を揺さぶられるほどの感動のようなものは感じられませんでした。

 

 

 

 

さて、今でほぼ10000歩近くに達しましたので、こちらで少し コーヒータイム といたしましょう!

 

     

 

実はこちらの建物…

同博物館のメインとも言える 旧帝国ホテル中央玄関 でございまして、この2階に喫茶室がありますので、しばし羽を休めることが出来ました。

 

     

 

     

 

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、こちらは建築界の巨匠と言われるフランク・ロイド・ライト氏 によって設計されたもので、東の帝国ホテルに対して西の 甲子園ホテル も同氏の設計で、こちらに関しては現在も武庫川沿いに往時のまま残されており、随時見学なども出来るようです。

 

過去の参考ブログ→

 

 

 

 

 

と言うことで、ゆるりと回れば一日を要しますが、さすがに飽きが先行したため予定より早く約3時間余りでサクッと切り上げましたが、ここで少しブレイクタイム!

 

こちらは、明治時代の庶民の食卓の様子だそうで、 一汁一菜 という誠に質素なものですが、お父さんたけが夕食に焼き魚が付くようで、今とは全く真逆な感じがしますね?

 

     

 

続いて、 食事中の方は退場いただいて…

 

食うものがあれば出すものも当然ありまして、現在のような水洗トイレが登場するのは昭和に入ってからでしたので、それらの建物には 厠(かわや) と言われる便所も必ずあって、その一部が公開されていましたのでご紹介してみましょう。

 

 

 

 

こちらは、当時の上級国民が使用したであろう厠で、高価な 染付便器 は当時のブームだったようですが、右が大便器で左は 朝顔 と言われる小便器で、富裕層宅では必ず大と小が区分されていました。

 

     

 

こちらは、 菅島燈台附属官舎 のもので、これまた上級公務員が使用するためか? 一段上がった豪華なつくりですが…

 

前頭部にある丸い覆いのようなものは 金隠し と言って、男性がしゃがんだ時に玉玉が見えないようにするためと、落下物の飛沫が飛ばないために設けられています。

 

     

 

こちらは、 幸田露伴借家 にあった厠ですが、当時の一般家庭ではこれが普通だったのでしょうが、傍らの明かり窓が何ともお洒落ですね!

 

     

 

続いて、こちらは 監獄の独房 のもので、ここまで来ますと便器は無くタライのようなもので用を達していたのでしょうか?

 

     

 

で、用便器の外側には必ず取り出し口がありまして…

 

     

 

一定量が蓄えられますと、こちらの 肥え担ぎ を用いて人力で回収し、更に一旦保存して熟成された後に畑の肥やしとして使用されるという 循環型社会 が形成されていたのも、この時代の特徴でした。

 

     

 

と言うことで、皆様に サクッと明治村 をご案内してまいりましたが、令和の今からはるか100年余りの時を逆戻りし、あたかもタイムスリップしたかの空間は全国でも唯一無二の存在であって、これからも末永く後世にこれらを伝えらんことを希望します。

 

つづく