俗に言う 民族の大移動 と言えば、正月とお盆にGWと言ったところでしょうが、今から54年前の1970年には3月から9月までの6ヶ月間の長期に渡り、その大移動が連日繰り返されました。
すなわちこれは、 「人類の進歩と調和」 をテーマに掲げ、世界77か国が参加した一大イベント 日本万国博覧会 が開催されたことに伴い、全国各地から大阪千里への観光客らの行動に起因するものでした。
当時の一般家庭を振り返ってみますと、まだスマホはおろか固定電話すら無いだけでなく、クーラーも電子レンジも無かった時代でしたが、日々向上する生活様式の変化と、それに伴う所得の増加も相まって、 「だったら近未来が体験できる万博に行ってみようか?」 という風潮が後押ししたのです。
さて、そうなりますと主たる旅客需要は対東京圏であって、これは当時開通していた東海道新幹線で捌けましたし、早朝に東京を発てば 日帰りが可能 だったのです。
しかし、当時はまだ航空機での移動は一般的では無く、例えば対九州からの旅客などは 必ず大阪で一泊以上 しなければ、万博を見学することは出来ませんでした。
そこで、それらの観光客を見越して大型ホテルなどが次々と建設されてものの…
♪はぁぁぁ~ 民泊ねえ! ビジホもねえ! 東横インとは何者だぁ?♪ という状況でしたし、そもそも圧倒的に宿泊施設が不足しているだけでなく、物見遊山的な観光旅行がまだまだメジャーで無い時代でした。
さて、ここで少し時系列を戻してみましょう。
一面が竹やぶだらけで未開の地であった千里の村に、突如として万博建設が持ち上がったことで全国から建設業者が集結したため、当然彼らが寝る場所と胃袋を満たす飲食店が必要になってきたのです。
そこで、そこに目を付けたのが、大阪道頓堀で大食堂を起業した方で、すぐさま現地に作業員用の食堂を建設するや否や大大大繁盛したのでした。
もうね…
このような一大イベントが開催されるとなりますと、頭の回転が早くレスポンスに優れた一部の業者は「濡れ手に粟」のごとくぼろ儲けに至るのですが、これに気を良くしたその業者は、万博会場に近い竹見台北側に 簡易宿泊所を建設 し、前述の宿泊難民らで更にひと儲けしようと企んだのでした!
※以下の記事は「千里タイムズ」より引用。
建設予定地?
詳細はこうだ!
収容人数は3500人。
料金は1人1泊2500~3500円。
構造は簡易プレハブ。
万博へのアクセスは桃山台駅→万博中央駅 5分!
要は、大阪市内中心部のホテルなどからあぶれた観光客向けに建設されたものの、昭和40年代のペラペラなプレハブ住宅だったため居住性は劣悪で、おまけにクーラーがまだまだ高価な時代だったので、間違いなく客室は非冷房だったと想像できましょう。
加えて、当時の帝国ホテルが1泊5000円だったことを考えますと、完全な ぼったくり料金 を設定していたのにも注目ですね!
さて、時は戻って実際に万博が開催されますと、宿泊難民らが公園などにテントを張って野宿したり、はたまた路上に勝手に駐車したりと、いわゆる 万博公害 が噴出したのです!
そして、その最大の元凶とされるのがくだんの 簡易宿泊所 であって、法律上は「簡易」であるため建築法には触れないものの、クーラーすら無い真夏の夜に3500人の宿泊客らが涼を求めるために付近を大挙して闊歩したり、はたまたゴミや騒音などの諸問題も撒き散らすことが予想されたため、地域住民らが一斉に反発したのです。
そして、後に住民らの意見が勝るようになり、ほどなく簡易宿泊所は撤去されるに至ったのでした!
まあ、記事の 悪徳は追放された という見出しは、いかにも昭和まるだしで現在なら完全に炎上している案件であろうけれど、こうして濡れ手に粟を企んだ業者は、地域住民の団結により駆逐され、ついぞや幻と化したのでした。
今は、静かで穏やかな千里竹見台周辺ですが、かつてはこんな騒動もあったのですね…。