伝統の 阪神vs巨人戦 と言われるほど、はるか昔より我が国では東西の対決が度々あるのが特徴かも知れませんね?
さて、今やその西を代表する野球チームでもある 阪神タイガース は、ご存知のように 甲子園球場 を本拠地としていて、それが今年100周年を迎えるのです。
さて、球場完成後は様々な名勝負が繰り広げられた当地ですが、今回はそれを細かく解説する内容ではなく、なぜ 甲子園球場 が誕生したのか? はたまた当時の歴史背景なども振り返って書いてみようと思います。
球場の近くを流れる 武庫川 は、古来より「暴れ川」といても有名で、度重なる氾濫で周辺に多大なる被害を与えていましたが、後に狭くなっている河口付近を付け替える 治水事業 が敢行され、元々の武庫川は廃川となってしまいました。
そして、時を同じくした大正時代…
全国中等学校優勝野球大会(現在の高校野球)が大正4年から開催され、当時は近隣の 鳴尾球場 などて行われていたものの、あまりにも多くの観客が押し寄せて怪我人が続出したことから、これが大きな問題となっていたのです。
そこで、同大会主催の「大阪朝日新聞」が増え続ける観客に対応できる大きな球場を浴したことと、廃川となった旧武庫川の跡地に運動場を建設する予定だった 阪神電車 の利害が一致したことにより、本球場が着工されるに至ったのです。
ただ、我が国に本格的な球場すら無く、おまけにトラックはおろか重機すら無い大正時代に於いて、これほどの規模の球場をつくることは相当苦労されたと察しますが、アメリカの「ポロ・グラウンズ」球場を参考にして建設され…
完成予定の大正13年が 十干十二支 の最初の組み合わせで縁起の良い 甲子年 (きのえねとし)だったこともあり、晴れて 甲子園大運動場 して竣工したのでした。
※ちなみに1年遅れると干支は乙丑(おつぼくのうし)球場?
2年遅れていれば丙寅(ひのえとら)球場になっていたかもです?
※甲子園球場歴史館HPより
加えて、これほど大きな球場を所有している阪神電鉄に対し、球団創設のお誘いがあったことから、1935年に同球場を本拠地とする「大阪野球俱楽部」を経て、翌年 大阪タイガース が誕生し…
その応援歌が初めて公に披露されたのが、かの 甲子園ホテル 西ホールでした。
※旧甲子園ホテル(武庫川女子大学所有)/予約制見学可能です。
さて、このような甲子園球場の好評を得て、他の大手在阪私鉄各社も同様の大規模な球場建設を目論むのでしたが、そのひとつが幻の 寝屋川球場 でした。
画像は1930年頃の地図になりますが、中央部分にある表記には 京阪グランド とあって、場所は今の寝屋川市駅より北東へ500mほどのところで、観客へのアクセスとして運動場前という臨時駅まで設けられていました。
加えて、甲子園球場が出来るまでは 最大規模を誇った球場 でしたが、そのお株を全て阪神に取られてしまった京阪としては、手をこまねいているほど大人しくは無かったのです!
そこで、甲子園球場以上の大球場の建設を模索する中で、当時の大阪毎日新聞社とタッグを組んで、今で言う高校野球を、
春のセンバツは寝屋川で!
夏は甲子園で! と使い分ける構想が立ち上がったのでした。
加えて、大正時代から在阪私鉄でのプロ野球構想を持っていた 小林一三氏 によれば…