1970年、いわゆる EXPO70大阪万博 が開催されたことで千里一帯が大きく変貌を遂げたのですが、その万博開催よりも10年前の千里と言えば、まだまだ竹やぶだらけの未開の地でしたが、突如としてここに大きな建物が建設されました。

 

     

 

そう!

それが現在の大阪茶屋町に移る前の「毎日放送千里丘放送センター」であって、ここから昭和49年4月8日に放送され、周り一面が緑一色の大自然の中にある立地をもじって、 花と緑の千里丘からお届けします… というフレーズを冒頭で伝えたのが、今や51年目を迎えるオバケ番組の 「ありがとう浜村淳です」 なのです。

 

 

     

 

テレビなどとは違って、要は手作業や家事をしながらでも聞けるラジオの特徴を生かし、その日の朝刊記事などをいわゆる 浜村流に少し面白おかしく脚色した番組内容 が特徴で、言うなればかなり崩して 柔らかくした報道番組 の一種に分類されるのではないでしょうか?

 

※以下、番組名を「ありがとう」と略します。

 

 

 

ただ、メインであります 浜村センセ が89歳という高齢の域に達したことに加え、数年前から入れ歯になったことで滑舌があまり良く無く、特に最近は「フゴフゴ…」と何を言っているのか聴きとりづらい場面もあるのが理由かは不明ですが、今月末をもって土曜日のみの放送となるようです。

 

     

 

 

 

それにしても半世紀を超えて今なお現役で活躍されている浜村氏のバイタリティーは崇高ですらあって、もしかするとあと10年くらいは現役を通せるんじゃないか?とも思うのですが、私がこの番組と出会ったのは昭和50年頃だったと思います…。

 

当時はまだ中学生でしたが、父が自宅に併設した小屋で事業を営んでおりまして、そこで毎朝聴くラジオ番組が 「ありがとう」 でしたので、壁伝いではありましたが結構ハッキリと聴き取れました。

 

     

 

そして、当時のアシスタントは泣く子も黙る滑舌バツグンで、これまた自称永遠の28歳と豪語する 鈴木美智子 さんでしたが、当時の浜村氏は 美智子姉さん と謙遜して一歩も二歩も下がって番組を進めていくスタイルでしたので、どちらか言うと姉さん女房との日常会話を切り取ったような構成だったと記憶しています。

 

ですから、今のように浜村氏が間違った内容を放送しても、姉さんからの指摘があればすんなりと訂正して詫びていましたね(笑)

 

     

 

 

 

ところで、ここで少し脱線してしまうのですが、この当時の在阪ラジオ番組の女性アシスタントとして人気と申しましょうか、勢いのあった方は鈴木氏の他には 浅川美智子 さんに…

 

※別名/鬼首(おにこべ)おりん→ヤングタウン月曜日の笑福亭鶴瓶師匠のアシスタントとしても有名です。

 

     

 

 

「ごめんやす馬場章夫」で馬場氏と絶妙な掛け合いが特徴だった 小山乃里子 さんの御三人が突出しておりまして、特に小山氏は強弱を付けた流れるような柔らかい語り口が素晴らしく、今でも彼女を超える女性アナウンサーを私は知り得ません!

 

     

 

ただ、残念ながら小山氏は他界されたものの、当時は彼女らを揶揄して さんばばトリオ なんて申しておりましたが、映像の無いラジオ番組でいかに正しく、時には笑いを交えて伝える語り口は、それぞれがそれぞれに特徴を持っておりました。

 

 

 

さて、兎にも角にも 長らくお疲れさまでした としか申しようのない浜村氏ですが、今から30~40年くらい前の脂の乗ったバリバリの頃は、かの 上岡龍太郎氏 が弟子にして欲しいと懇願に来たほど滑舌が良かったのです!

 

     

 

アナウンサーでも無ければ、お笑い芸人でも無い…

 

いわゆる ラジオパーソナリティ の草分け的存在と言えるのが浜村氏な訳なのですが、特にこの番組で特徴的な事と申しますと、ご存知 浜村節 ではないでしょうか?

 

「ええコンコロ(心)持ち」 に 「すっきゃん」←恋人のこと

「うどん屋の釜は湯(言う)ばっかり」

「浪速の空は日本晴れー」

「持った湯のみをバッタと落とし、小膝たたいてにっこり笑う」

などがあげられますが…

 

例えば酔っ払いが事件を起こしたという三面記事を「ありがとう」で伝える時には、自らが呂律の回らない酔っ払いの当人に扮して駄洒落を入れて事件を回想したり…

そして、その酔っ払いがいつも飲みに行く店は必ず クラブ バクテリア と決まっていました。

 

     

 

 

 

と言うことで、今や関西での名物番組と言っても過言ではない「ありがとう」ですが、これとて一朝一夕出来たものでは無くて、元々は浜村氏当人ですら1~2年だけという条件付きで出演を承諾したようでした。

 

すなわち、当時は「ありがとう」の3年前の昭和46年4月に放送が始まった 「おはようパーソナリティ中村鋭一」 が、朝のラジオ番組では圧倒的な人気を誇っていたからでした!

 

※以下、「おはパソ」と略します。

 

     

 

 

 

私のご同輩でしたら承知の事実だと思うのですが、 大阪で「えいちゃん」 と言えば矢沢永吉氏では無くて、中村鋭一氏はお約束ですね!

 

もうね…

過去の政治家時代に一度講演を聞かせて頂いたのですが、浜村氏を遥かに凌駕する立て板に水の語り口はもちろんのこと、公演時間が10分と指定されたとしても、その中でタイガースの話しから始まり、政治ネタを上手く混ぜた起承転結を瞬時に頭の中で計算し、時間ピッタリに完結できる頭脳の持ち主でした。

 

     

     

ですから、当初は 横綱と幕下の対決 よろしく、「ありがとう」の開始当初は全く勝負にすらなっていなかったと察しますが、それは中村氏が元々局アナウンサーのスポーツ担当であり、対する浜村氏は司会者が出自という大きなハンディがありましたので、ある意味仕方の無いことでした。

 

しかし、中村氏に対して少し泥臭い中にも温かみのある語り口と、意味不明なギャグを連発する浜村節は、今やほぼ放し飼い状態で悩みの種ではあるものの、当時はスマートで知的な中村氏よりも、どこか親近感のある浜村氏の方が主婦層からは好意的に受け止められたと思うのです。

 

そして、後発の「ありがとう」が徐々に人気が出始めたことで、奇しくも朝のラジオ番組でABCとMBSの熱き戦いの火ぶたが落とされたのでした…。

 

つづく