大阪と和歌山を結ぶ国道26号線…
私の世代で言うところの 第二阪和国道 の岸和田警察署近くには店舗が多くあって、今は比較的賑やかな感じがします。
しかし、この道路が開通した昭和50年代と申しますと、付近には田んぼが多く、お店もポツポツとしかありませんでしたが、突如としてこの交差点角に大きなレストランが開店したのでした!
時を少し戻しますと…
昭和40年代の 高度成長期 に入り、我々国民の生活レベルも一気に向上したのですが、当時は言ってもスマホやコンビニなどはまだまだ無くて、一家に固定電話が一台とエアコンも有る無しの状態でした。
加えて、今のように飲食店チェーンが乱立するのははるか後の年代でしたので、まだまだ気軽に寿司や焼肉を外で食べることが無かった時代でもあったのです。
しかし、後に当時のダイエーが一般向けに 輸入肉?を安価で大量に販売 するシステムを確立したことで、次第に一般家庭の食卓にも少しづつ牛肉料理が増えだしたんだけれど…
こと、家の外で肉を食べるとなると、薄汚れた 個人の焼肉屋 さんがほぼ全てでしたから、家族連れでは中々入りづらかった雰囲気がありました。
※イメージ
しかし、昭和50年代に入りますと、お一人様でもカップルでもファミリーでも気軽に入れるマクドナルドなどのチェーン店が一気に増え、その波に乗って実際当時の岸和田には イエロープレーン というファミレスチェーン店が一軒だけ出来ました。
※現在の旧R26号線で元岸和田青果卸売市場跡/現在のトヨタレンタカー岸和田店付近
※イエロープレーンは京料理美濃吉のファミレス部門
そして、そのほぼ同じタイミングで登場したのが やましげ という焼肉レストランチェーンでした。
まあ、申しましても誠に狭義なことになるのですがね…w
昭和50年代当時に岸和田にあった焼肉チェーン店と言えば、和泉大宮駅下がりにあった 大同門 だけでしたが、こちらは駐車場すら無い手狭な店舗だったのです。
※現在の公文式上野町教室のところ
※地主のH商事初代オーナーが、当時斬新だった焼肉チェーン店をテナントとして誘致しました。
しかし、この やましげ は国道沿いの交差点角にあって、しかも大型駐車場を完備した大型店舗として登場したのです。
※1980年の航空写真
実を申しますと、私が生まれて初めてアルバイトをしたのがこのお店で御座いまして、当時は 時給480円 という安さでしたが、それに反して店内は少し豪華な造りでした。
※イメージ
※当時の店長は山崎氏、ホールバイトの主任は岸城中学校出の永長氏でした。
さて、まだまだ外食産業自体が黎明期にあったことに加え、たまにはちょっとリッチに外食を楽しみたいという層を上手くつかんだため、少なくとも大阪南部地域の 南海沿線 に於いて一気に多店舗化を図り、岸和田店をはじめとして他に松ノ浜店など数店を構えるまでに成長しました。
(松ノ浜店は旧26号線沿い)
加えて、昔の 餃子の王将 と同じく、焼肉セットの割引券なども大量にバラ撒きましたから、知名度も一気に上がって、週末ともなると行列待ちが出来るほどでしたね!
※イメージ
忙しかったですよ!
てんやわんや師匠でした!
ちなみに、40年以上前の記憶を辿ってみますと、当時の やましげ岸和田店 は、中庭もあるこんな感じの造りだったかと…?
あと、メニュー構成も現在の焼肉チェーン店とほぼ同じでラインナップも多いだけでなく、何と言っても大きく写真が入ったメニューは見やすく、それまでの壁に手書きの価格表しか掲げていなかった煤けた個人の焼肉店と大きく違っていましたし…
※イメージ
他にも、ハンバーグにステーキに、しゃぶしゃぶなんかもありましたから、全てのメニューを覚える一苦労したのも今は思い出ですね!
それと、確か本社は三国ヶ丘で、弊社のパートナーでもある もじ工房 さんの二軒隣にあったんじゃないかな?
似たような屋号の会社は今でもあるのですがね…?
まあ恐らくなんだけれど、元々は精肉業者で 卸専門 だったものを、当時の最新鋭のシステムを駆使して 外食産業 に躍り出た、焼肉チェーン店の草分け的存在でしたし…
時代が時代だったので広く庶民に受け入れられたため、少なくとも泉州地域にお住いの50歳以上の方でしたら、誰もが知っているお店だと思うのです?
もちろん、今はそのチェーンはありませんよ!
聞くところによりますと、現泉佐野市会議員の方がこちらの社員だった頃に、二代目のボンボンが東京に進出して見事に 大コケ して廃れたようですから…💦
しかし、この泉州と言う狭い地域の中で、無敵の快進撃を誇った やましげレストラン でしたが、奇しくも互角の戦いが出来る競合店が台頭してきたのもこの時期でした…。
つづく