梅田の阪急百貨店とグランドビルに挟まれた広い通路…

 

もちろん、ここを通られた方も多くいらっしゃると思いますが、この広い通路はかつて 阪急梅田駅のホーム  があったところなのです。

 

 

     

 

昭和38年頃の航空写真で解説してみますと…

 

     

 

阪急百貨店ま南側建物ギリギリのところまでホームがあったのですが、実は高度経済成長をむかえるに当たり、電車の編成がどんどん長くなって手狭になったことから、駅全体を北に大きく移動することで、現在の阪急梅田駅に至った訳なのです。

 

で…

余談ながら、地下鉄との移動距離が長くなったことから、ここに 動く歩道 を設けることで、新しいホームが気分的に遠く感じないようにしたのでした。

 

     

 

 

 

さて、阪急だけではなくて、 南海電車 も同じように難波駅が手狭になってきたのです!

 

同じく昭和38年頃の航空写真です。

 

     

 

今は他の在阪大手私鉄と比較しますと、あまり目立たない南海ですが、実は創業が明治時代と古いことに加え、戦前は絶大な力を持つ電鉄会社として知られていて、当時は最大級を誇る 難波駅 は、他の追従を許さないほど立派なものでした。

 

     

 

しかし、私が幼少の頃には急行電車が4~6両でしたが、後に6両でも大混雑で積み残しが出るようになったのです。

 

     

※イメージ

 

そうなりますと、このままでは将来は8~10両編成にしないとどうにもこうにも行かなくなったのですが、ホームをこれ以上伸ばせない構造だったことから、阪急のように駅を大幅にずらすことはせず、難波駅自体を2階から3階に移動して拡張することにしたのでした。

 

まあ、同時期の大手私鉄といえばターミナルの大改造が花盛りでしたが、ここにある阪急と南海ではそもそも大きな違いがありました。

 

 

 

 

すなわち、かの小林一三氏が率いていた 阪急グループ は、かなり古くから鉄道だけでなくて自前の百貨店はもちろん、ありとあらゆる商業施設を展開しているノウハウと歴史があるので、拡張した新しい梅田駅の階下にすぐさまショッピングゾーン 阪急三番街 をOPENしたのです!

 

     

 

ぶっちゃけた話し…

 

当時は国民所得がどんどん増えだ時期でもあって、それまでは地元でしかモノを買わなかった一般庶民も、たまの休みに都心部へ出向いて余暇を楽しみ、ここで大量消費をする行動に移る過度期でもありました。

 

ですから、それまでは百貨店という非日常と富裕層をターゲットとした梅田駅界隈に、主に若者をターゲットとした店舗構成で、しかも誰もが日常時に気軽に訪問できるスポットが誕生した訳ですから…

 

駅直下という利便性も相まって、大盛況を見るのに時間はかかりませんでしたし、水の都をイメージして噴水なんかの演出もありましたから、子供も大人も単にブラブラするだけでも楽しかったのです!

 

     

 

加えて、 大阪万博 という国家プロジェクトの後ろ盾もあったことで、大阪でも俗に言うキタに巨大資本が次々と投入されたことにより、梅田界隈は破竹の勢いで成長したのです。

 

 

 

そして、阪急梅田駅に遅れること数年…

ようやく南海難波駅も大改造に着手する訳なのですが、難波駅周辺には心斎橋筋商店街やアメリカ村などがあるものの、 大阪の娯楽の中心は完全にキタ(梅田界隈)に移りつつ ありました。

 

ですから、このまま進んでしまえばキタがどんどん発展してしまうため、ミナミの地盤沈下は必至でしたので、南海としても手をこまねいている状況ではありませんでした。

 

     

 

そこで、南海は3階に移転した難波駅の階下を、それまでの倉庫や事務室として活用するのではなく、三番街のようにショッピングゾーンにしては?と考えましたが…

 

そもそも南海には商業施設などにおいてのノウハウは微塵もありませんでしたし、難波駅に直結する百貨店も阪急のような直営ではなく、要は単なるテナント貸しの 高島屋 でしたから、正に手も足も出なかったのです。

 

 

 

 

しかし、ここに来て南海はとある企業にSOSを出し、三番街とは趣の違う一大ショッピングゾーンを作ろうと大博打に打って出たのでした。

 

そしてキャッチフレーズはこう決められました!

 

街は動いていゆく。 南へ、南へ。

 

     

 

つづく…