本日8月15日は、いわゆる 終戦記念日 ということで、日本国民の全てが知る敗戦の日でもあります。

 

さて、戦争という重々しい内容を綴っても良いのだけれど、まずはフルコース料理の前菜よろしく、少し柔らかい話題から入っていこうと思います。

 

と言うことで、夏休みを利用して今春より大学生となった親戚の子供さんが、またまた訪問して来ましたので、ドライブがてらに丹後方面へ車を走らせてみました!

 

     

 

実は2年前…

ほぼほぼ同じルートを走破しているのですが、共に 鉄道好き ときていますので、その場所場所で撮った車両なんかもご紹介してまいります。

 

 

 

まずは、 舞鶴若狭道 に乗って…

 

     

 

終点の舞鶴西インターで降り、ほどなくして 西舞鶴駅 に到着しました!

 

     

 

 

 

 

田舎の都会のような街なのですが、こちらはJRと 京都丹後鉄道 (以下/丹鉄と略す)の共用駅でございまして、構内の傍らには丹鉄の車庫があるのです。

 

そこで、そちらに向かってみますと、元々は同線の花形車両であった、 タンゴディスカバリー という車両が、雨ざらしのまま朽ち果てているのでした。

※手前の錆びた2編成。

 

     

 

実は、2年前も同じく醜態を晒していましたが、訪問した日はたまたまなのか?どうなのか? 奥側の車両のエンジンを可動していて、何やら点検をされていたのです!

 

留置の状態からして廃車待ちと思われていただけに、考えようによってはいつでも走れるようにスタンバイしているとも取れますので、もしも再稼働するのでしたら、是非また訪問してみたいと思いました。

 

 

 

 

さて、今回は宮津周りを放棄し、福知山にとんぼ帰りして和田山まで進んで、橋梁で一枚撮ってみました。

 

     

 

やって来たのは、遠くから見ますと 青虫 のような電車ですが、こちらは113系という車でして、私達の世代からすると 普通に乗り飽きた車 なのですが、子供さん世代ではまた見方が違っていて、昭和レトロな古豪に映るらしく、必死のパッチでシャッターを切っていましたね!

 

 

 

 

さて、ここからは 播但線 沿いに姫路方面へ走って…

 

     

 

寺前駅まで出て…

 

     

 

更に南下して福崎を経由し、次に 北条鉄道 を訪問することにしました。

 

 

 

 

実は、子供さんはあまりローカル線慣れしていないと申しましょうか、ほぼ見たことも乗ったこともないようなので、関西圏に限定すれば 結構濃いめの北条鉄道 で、まずは電気ショックを与えてみましょう!

 

     

 

こちらは、警報機も遮断機も無い 第四種踏切 というもので、北条鉄道をはじめローカル線では定番の構造物なのですが、子供さんは初見のようでしたので、かなり興味津々のご様子でしたね!

 

で、このような踏切で撮影しまして、本日の 鉄道撮影 は終了しました。

 

     

 

 

 

場所は加西市。

ここより帰路につくのですが、道がクネクネとややこしいので、Googleマップを見てもらいながら走っていますと、何やら博物館のような建物が見えてきたのです!

 

まあ、普段から寄り道癖があるので仕方無いのですが、それほど先を急ぐことも無いので、興味本位で覗いてみますと…

 

     

 

どっひぇぇぇぇぇ~~~~!

 

こここれは、ミリタリーファンとしては絶対に外すことが出来ない垂涎のスポットじゃあ~りませんか!

 

     

 

 

 

実は少し前の新聞で、加古川辺りで戦闘機をレプリカで復元した云々という記事を読んだことがあるのですが、たまたま通りががったこちらが、その 鶉野飛行場(うずらのひこうじょう)資料館 だったのです!

 

 

 

 

 

と言うことで、ここからが本題…

 

先の大戦では、連合軍の戦闘態勢が整わない隙を突いたため、いわゆる序盤戦で我が国は連戦連勝を誇っていて、もちろん色んな戦略や戦術が功を奏したのですが、その立役者のひとつが、広く知られる 零戦 という戦闘機でした。

 

      

 

すんごく軽い機体に優れた運動性能が特徴で、開戦当初はバッタバッタと敵を撃墜しまくった無敵の戦いぶりでしたし、分かりやすく言えば鈍重なアメ車と 軽四のターボ が、短距離のレースをするようなものでしたから、勝って当然だったのです。

 

 

 

 

しかし、零戦がアリューシャン列島でほぼ無傷で拿捕され、それを持ち帰ったアメリカが零戦の弱点を調べ上げ、それを凌駕する戦闘機を投入し出した頃に、我が国は連戦連敗を重ねて行ったのでした。

 

     

 

 

 

 

ところで、ここに展示されているのは零戦では無くて、 紫電改 という名機なのですが、なぜこの加西市のこの場所と関係があるのかと申しますと…

 

     

 

 

 

今は武庫川団地が建っているところは、戦前は 川西航空機 というメーカーがありまして、その工場組み立て部門がこちらの飛行場に併設されていた関係で、要は川西航空機製の 紫電改 はここでテスト飛行を重ねていたご縁があったからなのでした。

 

 

 

 

さて、館内は無料で見学できたのですが、傍らにコクピットのレプリカがありまして、100円払えば座ることが出来ると言うので、さっそく体験してみました!

 

     

 

実は、以前に前述の「零戦」を拝見した際、あまりのコクピットの狭さに驚いたのですが、こちらはさほどの狭さは感じず、デ~ブの私でも楽々着座できたのは有難かったですね!

(※かの三四三空のパイロットでも、一名90kg超えが居ました。)

 

まあ、あまり細かく書きますと素人の方には分かりづらいので、この辺にしておきますが、エンジンの回転数から気圧の調整など様々に至るスイッチは全て手動で、そのパイロットの勘で操っていたそうなのです!

 

     

 

※すでに興奮しすぎて尿漏れ寸前!

 

 

 

さて、世界に冠たる 零戦 は1000馬力級のエンジンが搭載されていたものの、アメリカが後に倍の2000馬力級を積んだ戦闘機を登場させたのですが、要はアメ車の コルベット みたいなお化けスポーツカーを主力として配備されますと、さすがの軽四のようなペラペラの零戦は手も足も出せなくなりました!

 

 

     

 

そこで、そのコルベットにも勝てる戦闘機として登場したのが、この 紫電改 なのですが、機体は零戦よりひとまわり大きく、エンジンも武装も防弾も強化され、大戦末期の昭和19年に完成した後に、10000機を製造する計画が立てられました。

 

 

 

 

まあ、ぶっちゃけた話し…

この 紫電改 という機体はアメリカのそれを遥かに凌駕する実力がありまして、ガチでアメ公と勝負しても絶対に余裕のヨッちゃんで勝てるほどのポテンシャルがあったのですから、我が国の技術もまだまだ捨てたものでは無かったのです!

 

     

 

ですから、計画通りに「紫電改」が増産出来たとすれば、制空権は少し押し戻せたのかも知れませんね…?

 

 

 

 

しかし、敵ながら天晴(あっぱれ)と申しましょうか、いかんせん資源の無い我が国の戦争方針は、南方の 資源地帯を確保 し、それを シーレーン(海上輸送) で本国に送り、武器や飛行機や戦車を作って戦う、自存自衛が大前提でした。

 

     

 

 

 

しかし、晩年の ヒ86船団 の悲劇をみるまでもなく、物資を満載した商船に護衛を付けずに航行させるなど、シーレーンをないがしろにしてきたわが軍は、後に制空権を取ったアメリカ軍の破壊工作により、ことごとく撃沈されてしまったのです!

 

     

 

ですから、石油などの資源が入ってこない状況に加え、本土の軍事工場も連日の空襲で壊滅状態になり、増産どころか生産すらままならない状況に追い込まれてしまったのです。

 

     

 

つまり、兵隊どうしが戦うのではなく、シーレーンを止めてしまえば資源の無い我が国を干上がるので、徹底的にこの作戦が遂行されたのでした!

 

     

 

そう考えますと、この 紫電改 という機体がもう少し、あと1年でも早く完成していれば、これまた戦況は変わっていて、我が国の大空はしばらく守れたのかも知れませんが、たまたまここを通ったと言うことは…?

 

 

 

それらの枝葉はどうでも良くて、もちろんミリタリー好きでも構わないけれど、それ以前に 戦争という愚かな行為を二度と起こして欲しくない という先人達の声なき声が、たまたま私の心に届いたので、偶然では無く必然として、ここに導かれたのだと思うのです…?