今日8月6日は広島に 原子爆弾 が投下され、多くの命が奪われた日でもあります。

 

 

 

 

先の大戦を語るとき、我が国が有利に戦いを進められたのは初めの頃だけで、昭和19年を過ぎますと 絶対国防圏 が次々と破られ、刻刻と敗戦の道をひた走るしか方法がありませんでした。

 

     

 

 

さて、70年以上過ぎた今から顧みても、残忍非道な原子爆弾投下は許されざるべき行為でありますが、敗けを認めずズルズルと敗戦を先延ばしにした軍部にも、その責任の一端があってしかりたとも思うのです。

 

やるか?やられるか? その二者選択しか無い戦争という行為がもたらす狂気はとどまるところを知らず、先に 原子爆弾 の開発に成功したアメリカは、その爆弾がもたらす損害の大

きさを図り知るため、ほぼ空襲してこなかった無傷の 広島の街 を選んで投下したのでした。

 

     

 

ところが、一発目の原子爆弾の威力に満足を得たアメリカは、すぐさま二発目の投下を急ぐのですが、その候補に選ばれたのは他ならぬ 北九州市の小倉の街 でした!

 

 

 

 

あまり地理に詳しくない方はご存知無いかも知れませんが、近くには我が国が誇る 八幡製鉄所 があり…

 

    

 

 

接する小倉の街中にも、 小倉陸軍造兵廠(こくらりくぐんぞうへいしょう) という我が国最大規模の軍事工場がありまして、要するに鉄砲のタマなんぞをこしらえていたので、ここを第二発目の投下地点と定めたのです!

 

     

※赤枠が造兵工廠

 

 

おまけに、前述の広島と同じく、小倉の街は大空襲というほどの大きな損害は無く、ほぼ昔と変わらない街並みで、昭和20年の夏を迎えていたのでした。

 

 

 

 

ところで、先の大戦では 日本軍の暗号 がアメリカにほぼ解読されてしまい、その時々の戦で先回りや待ち伏せ攻撃をうけることもしばしばでしたが…

 

こと日本軍の暗号解読も捨てたものではなくて、アメリカの暗号をほぼ正確に解読していました!

 

     

 

すなわち、昭和20年3月13日の未明から行われた 大阪大空襲 においても、時の大阪鉄道局長で後の総理となられた 佐藤栄作氏 は、13日に「今夜空襲の恐れ、要注意!」と関係個所に連絡していたことからも分かるように、この「小倉原爆投下」が8月9日に実行されるという情報は、どうも事前に伝わっていたようなのです!

 

     

 

そこで、このままみすみすと原爆を落とされてたまるものかと、この小倉原爆投下を阻止するため、関係者らが色々と協議した結果、 コールタールを大量に燃やして煙幕を張り 、上空から小倉の街が見えないようにする作戦が決行されたのでした!

 

     

 

 

化学はあまり詳しくないのですが、製鉄所ではコールタールが大量副産物としてに出るので、それを燃やすと黒い煙が大量に発生するそうなのです。

 

 

 

昭和20年8月9日…

当日の九州の天候は曇り…

 

なおかつ、前日に敢行された八幡空襲の残煙に加え、このコールタールを燃やした黒煙の効果で目標地点(前述の小倉造兵工廠)の確認が出来なかったため、原爆を積んだB29は、周辺を何度も旋回してその機会をうかがっていましたが…

 

いつまでたっても雲と言いますか大量の煙が治まらず、晴れるまで小倉の上空を旋回するほどの燃料も残っていなかったので、仕方なく第二の投下目標である 長崎 へ飛ぶこととなったのです!

 

     

 

 

 

そう考えますと、小倉の街は原爆の被害を免れた訳なのですが、他方そのことにより長崎では多くの犠牲者を出したと言う 自責の念に駆られ 、このことは永らく表に出なかったことでしが、我が国が辿った歴史の1ページとして、近年公開されたようです。

 

そして、小倉北区にある勝山公園には、この長崎原爆投下の犠牲を慰めるため、平和祈念碑が今もひっそりと佇んでいるのでした…。