毎朝起床して最初にする行動といえば、玄関前の ポストに入っている朝刊 を取り出すことで、それを居間に持ち込んで、今なら炬燵(こたつ)に入ってページをめくるのが、長年変わらない一日のスタートになっているのです。

 

 

          

 

がしかし…

この毎朝当たり前に入っている 朝刊 とて、幾多の人々の尊い労働によって支えられているのであって、今日はその事について書いてみようと思います。

 

 

 

実は、現在営む 看板製造業 として独立開業した当初は、色んな設備投資とやらで資金が嵩んだため、ほどなく貯金すら全て枯渇してしまい 一文無し になってしまったんです!

 

         

 

かと言って、開業当初にお客さんから注文が殺到する訳でもなく、しからば飛び込み営業へと舵を切ったものの、そう簡単に契約は取れるはずもなく、ほどなくして日々の食事にもこと欠くようになってしまいました…。

 

 

 

 

そこで、こちらで材料や道具なども用意せず、身体ひとつだけで手っ取り早く始められる収入源として選んだのが、 朝刊配達のアルバイト でした。

 

これなら本業のオファーが入ったとしても、時間的な支障もほぼ皆無ですし、何よりも給与の支払いサイクルも早くて現金支給というのが大きな魅力でした!

 

          

 

 

今はどうか知らないけれど、当時は簡単な面接の後に「翌日から来てください」と、あっさり採用が決まったのですが、朝刊配達は販売店に集合するのが早朝の3時前で、そこから各方面に散って配達が開始され、終わるのが6時前でした。

 

         

※イメージ

 

 

で…

私の配達区域は200軒弱で、最初の3日間は お師匠様(おっしょさん) が同行し、手取り足取り教えてくれるのですが、4日目からは自分ひとりで配達しなければなりませんでした。

 

 

 

 

ぶっちゃけた話し、外から見ますと簡単そうで単純作業に映る朝刊配達ですが、よしんば投函する行動は単純だとしても、読者宅の順路をいきなり200軒なんて覚えれる訳が無くて、これが一番難しかったのです。

 

ですから、各々の読者宅を一軒一軒苗字の書いてある 単語カード のようなものを支給されまして、それに自らで加筆しましてね…

 

          

 

実は、その宅への道順は今でも残してある 順路記号表 というのに当てはめて、覚えていくのです。

 

          

 

          

 

例えばね…

一番最初に田中宅に配達して、その次が隣が北原宅なら「ト北原」、次がその向かいの藤原宅なら「ム藤原」と、単語カードに書き入れて、日中の明るい時間帯に模擬訓練を行ったりしていました。

 

 

 

あと、当時は朝刊が一部7円、日経新聞が3円、スポーツ報知が2円だったかな? なので全てを完配したとして 一日換算で1500円程度 にしかならなかったんです。

 

でも、一日に1500円もあれば、何とか「めしに醤油かけものでもありつける!」 のでギリギリ命がつながる、っちゅうことなので…

 

          

 

まあ、恥ずかしながら明日食うにも困る状況をして、四の五の言っている暇なんか無かったのです!

 

 

 

ところで、 朝刊配達員泣かせ だったのは、雨の日とチラシ広告の多い日でした…。

 

今はどうか知りませんが、雨の日は新聞にビニールを被せる機械が販売所に2台しか無くて、それを一部づつ自分で梱包するのですが、出勤すると梱包機の前に配達員の長蛇の列が出来ているので、大幅に出発が遅れるのに加え、ツルツル滑って新聞が積み込みし辛いんですよ!

 

          

 

あと、週末ともなれば チラシ広告 が多くって、それは読者からすると嬉しいことなのですが、逆に言えば配達員泣かせであって、あまりチラシが多い場合は2回に分けて配達しなければ積みきれないことも良くありました。

 

          

※イメージ

 

 

 

 

メインの朝刊は後ろに、日経とかスポーツ報知は前に…

 

それと、 注文の多い料理店 よろしく、中には難儀なことを言う読者も多々あって、○○スーパーのチラシは入れるなだとか、晴れの日でもビニールに包めだとか、三つに折ってポストの半分まで突っ込めだとかが数十軒…

    

            

 

要は、こんなややこしい読者のものは、一歩間違えればクレーマーと化すので、失念しないように前かごに分けて突っ込んでました。

 

 

 

けど、一ヶ月もすると少しは慣れるのですが、やはりどうしても 誤配 なんかが付きまとってしまうので、そんな日に販売店に戻ってくると、自分よりも10や15歳も年下の先輩? らから、ボロクソに怒られるんですね!

 

          

 

 

 

悔しかったですよ!

 

お・ま・え・は   ア・ホ・~・か?とか罵倒されたりね!

 

         

 

当時は半分爺になりかけのアラフォーだったのですが、19や20の鼻垂れたクソガキ共ににブチ切れて、 「ほな辞めたるわ~い」とは強く出られなかったのも事実でした。

 

守らなければならない人も居ましたし、言葉は悪いのですが誰かが歯を食いしばって 人柱 になり、現状を打破しなければなければ先が無かった時期でしたから耐えましたけどね…?

 

 

 

 

それと、今の時期なら大雪だった日もあって、凍える手でポストへ投函するんですが、ふと後ろを振り返ってみると、自分の乗って来たバイクのタイヤの跡が、道路に一条の帯となって浮かび上がっているんです…。

 

            

 

幻想的でしたよ!

 

そして、人は人として最期の瞬間を迎える時、その様々な生きてきたシュチュエーションが脳裏に過ると言われていますが、この瞬間は間違いなく出て来るでしょうし、今をもってしてもあの頃の 自分を褒めてあげたい と思ったりもするのです。

 

 

 

 

ややもすると弱者が強者面して、何でも補助補助と金をばら撒けば全てが丸く収まると勘違いしている今日に思いを馳せる時…

 

あの頃に、あの場面で親戚らが 「お金貸してあげるで~」 と手を差し伸べてくれていて、自らもそれを快諾していたとしたのなら、少しは楽に生きられたかも知れませんね?

 

         

 

だとしても、一度その温かい行為に触れてしまうと、また困ったときには、また誰かが助けてくれるだろうと勘違いしてしまい、それが自分の中で当たり前になってしまえば、今はダメ人間になっていたのでしょう…?

 

でも、あの状況に置かれたとしても、自らを奮い立たせて鬼神となって頑張れたことが自信となり、ある意味で 人生観 のようなものが芽生えたことも確かであって、後々の人生にも大きな影響を与えてくれた経験が出来たのでは?と、今でも思うのです…。

 

 

 

 

そう!

今朝ポストから取り出した朝刊を見ながら思いを馳せ、改めて日々感謝をして積み重ねて行こうと思いました。

 

 

※本年も、この拙(つたな)いブログをご拝読賜りまして、誠にありがとうございます。 来る2022年も、皆様にとって良き年でありますようお祈りいたしております。