今や関西の玄関口として、かつ世界的にも珍しい海上空港として 関西国際空港 が開港したのは1994年9月4日…

 

来る明後日で満27歳を迎えるのですが、かつて対岸の泉佐野市にも空港があったことをご存知だろうか…?

 

         

 

先の大戦の主役が航空機に取って代わられる現実をして、当時の日本軍も航空戦に力を入れていた時代があって、全国各地にいわゆる日本軍の飛行場が建設された時期があったのです!

 

そして、三重県の伊勢神宮に近い明野という街に、 明野飛行学校 という陸軍の要となる施設があって、その分校として建設されたのが、お題の 佐野飛行場 でした。

 

 

 

 

まあ、当時は今と違いまして一面が田んぼや畑だったのですが、 「ここに飛行場をつくるぞ!」 と軍が発言すれば、誰も反対どころか表向きは進んで土地を提供した時代でしたから、半ば強行的に1942年に着工されたのでした!

 

 

 

 

 

現役時代の佐野飛行場の様子です。

 

         

 

 

一本滑走路の小さな飛行場でしたが、後に現在の関西国際空港と同じく、横風用に二本目の滑走路を建設する計画もあったようですから、驚くことに先人らに先見の明があったのです!

 

 

 

 

続いて、下は1963年頃の写真なのですが…

 

 

     

 

まずは、建設資材や人員を円滑に運ぶために 羽倉崎駅← が1942年開業し、現在の 末広公園→ から東側に滑走路の区画跡が確認できると思うのですが、これが飛行場の跡地でして…

 

 

 

 

現在でも関空道を跨ぐ斜めの区画に、その名残が見て取れるますね!

 

     

 

 

さて、建設が始まった1942年と申しますと、 ミッドウエイ海戦 で大敗北を期した頃ですので、日本軍の尻にも火が付きだした頃でした。

 

ですから、後に学徒勤労動員の命を受け、中学生や高校生の婦女子(現在の岸和田高校や佐野高校の生徒が中心)までも総動員して急ピッチで建設が進められ、2年後の1944年に完成に至るのでした。

 

         

 

 

 

 

さて、文献や拾い物の画像を貼り付けるだけでは無く、先日現地を訪問してみたのですが、今は宅地と化した当時の滑走路跡地がコチラです。

 

        

 

そして、わずかな戦争遺跡としては、今も残る佐野飛行場の門柱跡も確認できました。

 

         

 

         

 

※コンクリート部分

 

 

ただ、飛行場としての運用が始まりますと、一時期は 三式戦闘機 飛燕 の配属もあったそうですが、全国的に名を馳せて活躍した飛行場では無かったようです。

 

         

 

 

ところが、戦局の挽回いかんともし難く、飛行場が完成した1944年には絶対国防圏だった サイパン(彩帆)島 が陥落し、B29による本土空襲が本格的に始まった頃と重ってしまったのが運の尽きだったようで…

 

この時期ゆえに、本来の飛行場としてと言うよりは、沖縄方面の 特攻機 や、B29の迎撃戦闘機の中継基地として、細々と使用されていたようでした。

 

※敗戦間近にロケット戦闘機「秋水」の配属予定もありましたが、実機自体が完成すらしていませんでした。

 

         

 

 

 

さてさて…

飛行場をここにつくるという日本軍の一方的な命令で立ち退きを余儀なくされた住民はともかくとして、その予定地にあった神社までも強制的に立ち退かされた悲しい歴史があったのも、これまた事実なので記しておきましょう!

 

 

 

 

羽倉崎駅と長滝駅を結ぶ府道248号線沿いにある 蟻通神社 の今日の姿です。

 

         

 

当地では伝統のある比較的大きな神社なのですが、境内にはこんな説明書きが… 

 

             

 

強制的な立ち退き命令でこの地に社を設けた訳ですが、今流行りのパワースポットだとか御利益がどうとかという話しでは無くて、ひっそりと佇む神秘的な境内を通って詣で…

 

         

 

 

 

 

 

立ち退き前に境内があった地にも足を運んでみました…

 

         

 

奥に写る高架橋は関空道のそれでして、その反対側が前述の飛行場跡地になります。

 

ですから、ここより広い境内が戦前にはあったようですが、後に飛行場に境内が重なるという理由から、今は跡地に記念碑だけがひっそりと佇んでいました。

 

         

 

先の大戦の開戦から今年で80年…

 

先の大戦で多くの人達が命を落とし、多くの人達の人権が無視され翻弄され、住む場所さえ追い出された悲しい歴史の一ページが、今日もこの地に生き証人としてひっそりと佇み、私達にその過去の事実を訴えかけているのでした。