先日は、大手看板屋のお手伝いとして、大阪 千里ニュータウンの団地周辺の看板補修工事を行ってきました。

 

ただ、本来の仕事の内容はさておいて、新しく林立する高層マンション(団地)の傍らに、今も残る 昭和の団地 も散見されましたので、少しリポートしてみようと思います!

 

 

 

 

まあ、言うところの歴史から入りますけど、先の大戦から第一次ベビーブームを経て、所謂(いわゆる)それら 団塊の世代 が成人に向かいつつある昭和30年代後半に入りますと、圧倒的な住宅不足に陥ったのでした。

 

補足記事→

 

 

 

 

 

そこで、大阪では大規模開発の第一段として、くだんの 千里ニュータウン が誕生したのですが、下記の国土地理院の航空写真を参考になさっていただくと、より解りやすく変化が読み取れると思います。

 

※センターは柴田? 前田敦子? ではなく、写真のセンター辺りが 千里中央駅 です。

 

 

 

 

下矢印下矢印 1947年頃(戦後間もない昭和22年頃)

 

         

 

実は、開発前の千里丘陵地の大半は竹藪でしたので、今も竹見台などの地名が残っています。

 

 

 

 

下矢印下矢印 1963年頃(高度経済成長の初期/昭和38年頃)

 

         

 

まだ、地下鉄一号線(今の御堂筋線)は開通していませんが、右端には阪急千里線が開業したため、南千里駅付近の高野台、佐竹台辺りの建設がはじまっています。

 

 

 

下矢印下矢印1975年頃(昭和50年頃)

 

         

 

ひとつ上の写真から10年で大変貌を遂げましたね!

 

と言うことで、その後の小規模開発は別として、今の千里ニュータウンの骨格は、ほぼ大阪万博が開催された昭和45~50年で完了していると読めるものの…

 

現在は当時に建設された 昭和の団地 が、50年以上の年月を経てしまいましたから、老朽化や耐震ナンチャラの理由で建て替えが急ピッチで進んでいるようですが、どっこい今もわずかながら昭和の団地も残っていたりするのです!

 

 

 

 

 

場所は某所とだけお伝えしておきますが、昭和45年前後に建設された某団地の、令和の今の様子です。

 

    

 

剝き出しの配管に鉄の玄関扉!

 

薄暗い廊下と共に、辺り一帯にはカビ臭いと申しましょうか?

線香の匂い? 新聞紙の焼けた匂い? 洋服ダンスの匂い?

サロンパスの匂い?…

まあ、ぶっちゃけた話し、それらが絶妙にミックスされた 昭和まるだしの匂い が壁やそこかしこに浸み込んで充満していましたから、今の人からすると変な臭いに感じるかも知れませんね?

 

 

 

おまけにですよ!

廊下の端には 懐かしのダストシュート がそのままどころか、その当時の表記が当時のままの姿で残っていたのですから、 寒イボ全開 (鳥肌の意味)で血圧は一気に200越え! ↓

 

                

 

 

※現在は使用されていませんが、使い方はこんな感じです。

 

下矢印下矢印

 

         

 

         

 

         

 

まあ、当時はゴミも少なくて分別も無かったですし、上階から階段を使ってゴミ出しする労力を減らすためのシステムでしたが、落下して地上で炸裂するゴミは始末が悪いため(表記の通り空瓶もバンバン投下していました)、結局は無くなってしまいましたが…

 

元々は、団地の外観の矢印部分(壁の内側)から投入し、シャッターの奥に集積地があったと推測できます。

 

            

 

 

でもね…

こうして今見てみますと懐かしいと申しましょうか、 昭和レトロ な感じなんですが、当時は最先端どころか中間所得層以上の限られた方のみが入居が許された、憧れの団地生活でもあったのです!

 

補足動画→


 

 

 

間取りも小さなキッチンと6帖+4.5帖に、なな何と 家族4人 が普通に生活していたことを考えますと、どれほど物が少なかった時代だったかと想像できますが…

 

         

 

他方、それまでの庶民の住まいと言えば、台所や風呂トイレが共同のアパートが大半でしたし、私の幼少の頃もたくさい現存していましたから、当時はいかに団地生活が最先端だったかがお分かりいただけると思います。

 

 

 

 

さてさて、団地と必ずセットになっているものと言えば 近隣センター でして、そもそも未開の地に大勢が移り住んできたのですから、スーパーや酒屋、たばこ屋に散髪屋に医院なんかの集合体が各箇所に設置されていて、そこで日常の全てが賄えるという仕組みでした。

 

 

 

で、くだんの団地から徒歩圏に現存するのが 竹見台マーケット と申しまして、名称は近隣センターではないものの、当時の公設市場に似た雰囲気も感じ取れます!

 

         

 

実は、館内には空き店舗もあって寂しめですが、それでも肉屋さん果物屋さん、総菜屋さんなどが元気に盛業されているのです。

 

         

 

で、その周りには個店が密集する感じになっていまして、何とも昭和レトロな婦人服屋さんが…

 

         

 

マネキンもレトロ過ぎ!

 

         

 

おまけに、トイレなんか怖過ぎて入れないやん…!

 

         

 

         

 

と言うことで、これらは決して面白半分でリポートしたのでは無く、当時の建築物が今も現役で活用されているという様が喜ばしく、図らずも一瞬たりとて懐古できたことを嬉しく思いました。

 

他方、昭和を生きた当時の人々はマイカーなかは高嶺の花で、下手すりゃ自転車すら所有することも難しかった時代でもあったため、全てが狭い範囲で徒歩で完結する慎ましやかで、かつ刺激の少ないゆっくりな日常生活でした。

 

ですから、かくして千里ニュータウンを歩くことによって、もしも当時に 新型コロナウィルス があったとしても、それほど大流行はしなかったであろ生活様式が、昭和の時代のスタンダードだったのだなぁと、懐かしく思った瞬間でもありました。