普段普通に生活している中で、何気に不思議に思ったりすることがある。

 

まあ、その大半はどうでも良いことには違いはないれど、個人的に前々から、 泉北1号線 という道路のことが気になって気になって仕方がなかったのだ!

 

 

 

通られた方ならお分かりだろうが、例えば光明池方面から北へ走ると、途中の深井辺りまでは、鉄道を挟んで両サイドに道路にが走っているけれど…

 

 

深井を過ぎると道路の真ん中に、 無駄に広いスペース が残っていて、日中でも渋滞するので、もっと道路を拡張できないのか?と、いつも不思議に思っていた。

 

 

 

下の写真は、泉北1号線から「ときはま線」に右折で入る 北条1丁目交差点 の様子である。

 

 

 

 

両車線の間には、もはや公園なのかと見紛うほどの広大なスペースがあって、すでに自然に還りつつあるようだけれど、より分かりやすいように、googleマップで俯瞰して見ると、こんな感じになっているのだ!

 

 

 

じゃあ?

なぜこんなスペースを空ける必要があったのかと調べてみると、古く 泉北ニュータウン が出来る前まで歴史を戻さなければならなかった。

 

 

 

先の大戦で国土が焦土と化したものの、朝鮮戦争の特需を経て昭和30年代に入ると、「もはや戦後ではない」と言葉が流行したように、一般国民の生活も徐々に安定してくるようになる…。

 

 

ただ、戦後爆発的に増えた人口に加え、それまでの働き方が大きく変わってしまい、その大半は都市部へ集中することになってしまったが、そうなると 圧倒的に住宅が足りない という現象が起きてしまった!

 

 

 

そこで、国はもちろんのこと、大阪府も大規模な宅地が開発できそうな土地をあれこれ探していたが、結局のところ昭和33年に千里に、昭和36年に泉北に 大規模ニュータウンを建設する という構想が発表されたのである。

 

 

今から思えば、飛躍的に国力が増していく時期でもあったからこそ、あれほどまでの大規模開発を断行できたのであって、そう考えると先人達の 先見の明 に天晴れと言わざるを得ない。

 

 

 

さて、 泉北ニュータウン は昭和40年に入ると本格的に着工されていくのですが、ここへ来て 「どのようにして住民らを運ぶのか?」 という大きな問題で頓挫してしまうのである。

 

すなわち、数十万人規模の人口の通勤や通学となると、とてもバスでは運びきれないのは、火を見るよりも明らかであり…?

 

 

だったら、広い道路を造ればどうかという意見もあったけれど、 マイカーはまだまだ先の時代 だったので、決定打にはならない…?

 

じゃあ、先に着工された 千里ニュータウン のアクセスはどうかと言うと…?

 

 

 

 

元々ニュータウン近くまで来ていた「阪急千里山線」を延伸したと言いますか、阪急という企業は資金に余裕があったので、あっさりとその開業にこぎつたのです。

 

 

そこで、この開発を主導していいる大阪府は、泉北ニュータウンのメインアクセスとなる鉄道を敷設延伸してもらうため、第一候補の事業者にお願いに出向くことにしましたが…?

 

つづく→