前回の続きである。

 

踏切内で立ち往生してしまったトラックは、脱出をしようと試みたものの上手く行かず、ほどなく列車がやってきたので衝突!

 

列車はトラックを引きずったまま、 男里川 へ転落して死傷者が多数出てしまったというのが、この事故の経緯である。

 

      

 

で、後に裁判では全てトラックドライバーの  の操作ミスという形で12年後に結審したものの、今をもっしてし多少の疑問も残ったりする…?

 

 

 

 

まず、トラック側のAとSは、衝突が避けられないと判断したため、線路外へ逃げたのは当然としても、当該列車の運転士だった  も同じく、避けられないと判断した瞬間、助手席に座らせていた同児を抱きかかえ、客室へ逃げ込んだというのだから始末が悪い!

 

 

それと、ここは現在も線形が変わっておらず、右カーブしてからの踏切は見通しが悪かったため、踏切手前 180m でトラックに気付いたと証言しているが、同児に気をとられて運転に集中できていたのか? どうなのか?

 

        

 

※googleより拝借

   

と言う以前に、そこまで見通しが悪い踏切であれば、列車の高速化に合わせ、警報機鳴動の接点を動かすなどの手を打つべきではとの疑問が沸くものの、今で言う「コンプライアンス」が良くなかったので、これで改心することなく、南海は後に大きな事故を立て続けにふたつも起こしてしまった!

 

※南海三大事故と言う

 

 

 

 

それと、例えば列車の 前照灯 (ヘッドライト)を明るくして、夜間でも前が見え易いようにしようとしても、「列車の前照灯は1個とする」という、訳のわからない法で縛られていたので叶わなかったのである。

 

      

 

 

なので、当該列車もこれに倣ってオデコにそれを1個備えているが、これではさすがに暗く、後の列車の高速化に伴って法が追いつくようになり、国鉄20系電車では特例で3灯になり…

 

 

      

 

南海も昭和36年の新型車からは2灯を装備するようになり、現在に至っている。

 

 

 

 

他方、トラック側の整備担当者を含め、メーカーである日産でも様々な調査をしたとあるが、今と違って旧式であるがゆえ、少しの勾配でも、希に燃料ポンプ上手く作動しないことが有るらしく、たまたま凸凹の踏切内でエンストしてしまったことは、返す返すも不運と言わざるを得ない。

 

加えて、近づく列車に対して、 衣服を燃やす などして状況を知らせるべきではとの指摘もあったが、当時の車には 発炎筒 が備え付けられていなかったという事であろうか?

 

      

 

 

ただ、この事故がきっかけとなった訳では無いけれど、事故後にこの踏切はすぐさま廃止されてアンダーパスになり、踏切内も照明の増設で明るくなり、今では SOSボタン や、障害物検知装置が備わった踏切も多くなってきている。

 

      

 

しかし、高度経済成長がはじまった頃の当時も今も、「踏切事故」は一向に減る兆しが見えず、どんなに安全対策を施そうとも、先日も「京急」であったばかりだし、時代は変わろうとも 踏切は危険な場所 であって、鉄道側も渡る我々も気をつけなければならない!

 

 

 

今やこの事故は、時代にのまれて忘れられそうになりつつあるけれど、この事故があって、この事故での犠牲があったからこそ、踏切での安全が少しずつ図られ、私達は日々安心して暮らせていることを感謝しなければならないと思った…。

 

この稿おわり