昨年に大阪を直撃した「台風21号」は、未曾有の被害をもたらしたが、その中に 南海電鉄の鉄橋が陥没する という出来事があった。

 

      

 

もちろん、急ピッチの工事が幸いして、ほどなく開通したものの、実はこの同じ場所で、昭和42年に列車の転落事故が発生したことを思い出すきっかけとなってしまった。

 

 

 

この事故は、先の 京急事故 と同じように、踏切で列車とトラックが衝突したものであるが、こちらは不幸にも乗客に死者が出ている!

 

さて、昭和42年と言えば、ぼちぼち高度経済成長期に入った頃で、国民の所得も景気も上向いていた良い時代である反面、車の保有台数も一気に倍増し、 交通戦争 という言葉が出来たほどであって…

 

 

      

 

      

対する鉄道も、昭和30年代後半から高性能化がはじまり、今と変わらない高速運転が可能になってきた。

 

 

ただ、当時の状況はどうだったのか?

なぜ、事故が起こってしまったのかを知る手がかりを先日掴めたので、時系列を追って検証していこうと思う。

 

 

 

 

昭和42年4月1日…

大阪府泉大津市にある運送会社に、ドライバーとして勤める A(21) は、その日の業務を完了して17時過ぎに事務所に戻ってきた。

 

普通なら、ここですんなりと帰宅すれば良かったのだが、たまたまた同社でトラック助士をしている年下のS(19)から、友人の引越し荷物を引き取りに行きたいので、これを運んでほしいと懇願された。

 

      

 

Aは越後地方の寒村で生まれ育ち、昭和39年にこの会社に入社したけれど、自らも同じく助手を経験した後、一人前のドライバーとなった経緯がある。

 

なので、Sとはさほど年齢は変わらないものの、 先輩らしく 振舞わねばならないし、先輩のプライドのようなものもあるし、もしかすると後輩思いの 親分肌 の性格だったのかも知れないが…?

 

 

 

Aは快諾してしまった!

 

 

 

 

18時過ぎ…

空荷となっていた自ら担当のトラック(ニッサン680型/62年式)に乗り、助手席にSを乗せ、Sの友人の荷物がある泉南市(当時は泉南郡)まで、現在の旧26号線を南下しはじめた…。

 

      

 

車内ではどんな会話がされたのであろうか?

 

将来のこと…

彼女のこと…

趣味のこと…

 

他愛もない会話に笑い声が絶えなかったのかは知る由も無いんだけれど、経済が上向いていて、これから前途ある若者らの会話が弾んだに違いないと思うのだ!

 

 

 

 

他方、転落した列車の運転士Bは、事故当日の4月1日は16時に和歌山支区に出社し、和歌山市 16時35分 発の難波行き急行に乗務し、17時45分に難波に到着する。

 

 

      

 

で、難波駅の詰所で休憩している頃に、先のAとSが泉大津から南下しはじめていたので…

 

運命のいたずらという言葉で現したくは無いんだけれど、全く互いに何の関係もない者同士が、この時系列を境にして引かれ合うという瞬間に入り、少しづつ歯車が狂ってきたのであろうか…?

 

 

 

 

追ってBは、今度は和歌山市行き急行に乗務するため、難波駅のホームを歩いていると、たまたま妻と3歳になる長男とバッタり会ってしまった!

 

まあ、そこまでは偶然でも良かろう?

 

しかし、妻がこのBが運転する列車の2両目に乗ったものの、同児にせがまれたB(父親)は、あろうことか運転室の助手席に同児を座らせてしまったのだ!

 

 

 

 

子煩悩なのかどうなのか?

 

      

 

時間帯からすれば、夕方のラッシュ時で車内が混雑していたので、親心としてそうさせたのかは不明だけれど、先のトラックもプライベートで使っているし、このBも仕事とプライベートとの区別がつかない性格だったのだろうか?

 

 

今と違って ゆるい時代 だったのは確かなんだけれど、それとこれとは別物だし、よしんばトラックはギリギリセーフとしても、列車の運転席に我が子を乗せたまま運転する行為は許されるものではなく、Bの思考回路はこの時点ですでに脱線しまくってると言えよう!

 

 

 

 

で、18時40分… 

 

Bとその子供を乗せた和歌山市行き急行が、難波駅のホームを定刻にスルスルと離れた頃…

 

      

 

友達の引越し荷物を引取りに向かったAとSは、旧国道26号線を南下し続け、列車に先行する形で、ちょうど泉佐野辺りを走っていた頃であった…。

 

つづく