前回の続きである。
いくら高速道路が整備されたと言っても、繁忙期のゴールデンウィークに長距離を移動するにはいささか懐疑的だったけれど…
どうせ高知まで遠征するのなら、個人的にかねてより訪問したかったスポットがあったので、今回は別扱いの記事としてアップさせていただこうと思う。
まず…
「イエスかノーか?」
「マレーの虎」
と聞いて、歴史上の人物の名を即答できるとすれば、よほどの歴史(近代史)好きと言えよう?
そう!
先の大戦でマレー半島攻略を指揮した 山下奉文(やましたともゆき)大将 は高知県の出身であって、今回の旅行でそのゆかりの地を訪問してきました。
時は昭和16年…
現在のシンガポールを含むマレー半島は、当時はイギリス帝国の亜細亜(アジア)の要と言われていました。
しかし、そこへ開戦によって彼(山下奉文大将)が率いる大日本帝国陸軍部隊が急襲を加えたのは、真珠湾攻撃よりも早い時刻でした。
おまけに、 銀輪部隊 によって兵隊が自転車で移動することで、まさに電光石火のごとく一帯を占領したのでした!
で、追い詰められた パーシバル中将 との交渉で出た言葉が、無条件降伏するのかどうなのか?
「イエスかノーか?」
と迫ったと言われています。
実は、この時の日本軍の弾薬は底をついていて、イギリス軍が本気で反攻してきたらおしまいだったようですが、彼は昭和の 西郷さん と言われるほど恰幅が良かったのと、その不安を微塵も感じさせない堂々とした態度で押し通したため、ここを占領できたのでした。
さて、その彼が幼少期に育った 山下奉文旧邸 が、大豊インターチェンジのすぐ近くにあるようですので、まずはそちらを訪問しました。
目印とも言える比較的新しい感じの石碑がありましたので、現在の地主様の許可をいただき、敷地内から撮影させていただきました。
そして、大豊の大杉があった「八坂神社」の境内には、山下奉文の祠(ほこら)がまつられていました。
先の大戦に思いを馳せるとき、その前哨戦で大勝利した彼の名は世界中に轟いたのは当然として、高知県の山間にある集落で育ったという事実は、当時この地に住む者にとっても、さぞかし自慢だったことでしょう!
ただ、細かい事実は省略するとして、最後は敗色が濃いフィリピン攻略戦の指揮を執って終戦を迎えます…。
で、先の大戦で戦勝国が敗戦国を一方的に裁いたことから、さんざん屈辱なる敗北感を味わわされ、顔に泥を塗られたイギリス軍(連合国軍)によって、最期は囚人服のままの絞首刑によってこの世を去りました…。
前々回のブログ記事にありましたが、 アンパンマンミュージアム でご家族を降ろした後に、実は私は車でお留守番することなく、ここより2kmほど離れた彼の生家跡を訪ねていました。
「香麗橋」を北に渡って左折して7~800m…
道端を凝視していなければ気付かない小さな目印は、そのほとんどの文字が読めない石碑であって、ここから小道を登ったところにありました。
もちろん、住居自体は存在してなくて農地になっているのですが、現在の地主様の許可をいただき、敷地内に入って撮影させていただきました。
昭和のはじめに時代の寵児(ちょうじ)となり、時代を大きく動かし、後に時代に翻弄された人物がこの世に命をうけた場所が、まさしくここだったのです!
彼の最期は一切言い訳をせずに全ての責任を負い、部下らに詫び、後世の我が国が発展することを切に願っていたそうです。
深く頭を垂れました…。
そして、石碑の裏に回ると…
こう記してありました!
馬来(マレー)攻略記念
昭和17年と…
貴重な体験が出来た旅でした。
この稿おわり。