昭和5年に竣工した 甲子園ホテル は、甲子園球場を核とした一帯のレジャー施設に出向いた富裕層らの宿泊施設として、当時のトップクラスの建築技術で建てられている。
ところで、甲子園球場もこのホテルも、実は阪神電鉄が単独で建設したものであって、失礼ながらそれほどの体力がある会社だったのか、と懐疑的になる方もいらっしゃるかも知れない…?
現在でもそうだが、同業他社でもある阪神と阪急を比較した場合、会社の規模や営業路線までも含めると、圧倒的に阪神の方が体力が無いのは明らかであるが…?
実は、大量の電力を消費する鉄道持つがゆえ、その余った電力を売ることが許されていた時代だったので、戦前の阪神電鉄は 沿線の家庭へ電力を売っていた のであった! (戦前までは電力は自由化されていた。)
すなわち、エネルギー源の根幹を握っていたことから、資金に事欠くことは無かったのである。
他方、明治~大正時代に開業した関西の大手私鉄は、沿線に百貨店やレジャー施設などを設けることにより、いわゆ「沿線培養計画」を着々と遂行していた時代があって…
これが今に通じる、阪急の宝塚に対して阪神は甲子園ということなのである!
それと…
案内の方の説明を聞くと、昭和4年の着工から完成まで わずか1年 と言うことであったが、当時は重機なども無く手作業であったのに加え、凝りに凝りまくった造形を、どうして短期間に完成させたのだろうかと疑問が沸く…?
大量の労働者をどうして集めたのだろうかと…?
実は、これにも時代背景があって…
不幸にも大正12年に発生した 関東大震災 は、東京を中心とした周辺に未曾有の被害を出したため、企業を含めた労働者の多くが大阪へ越してきたのである!
加えて、大阪市長に就任された関一(せきはじめ)氏は、大阪の街を大きく変えるインフラに着手し…
御堂筋の着工(大正15年~)
地下鉄御堂筋線の開通(昭和8年)
他に、城東線の高架化(昭和8年)
(現在の大阪環状線の大阪~京橋~天王寺)
と、現在にも残るインフラを次々と完成させたのは、他ならぬ関東からの労働力をバックボーンに出来たからでもあって、戦前に繁栄を極めた大阪は 大大阪 とも言われていて、東京を凌駕するアジア最大の街となり、東洋のマンチェスターと言わしめた背景があったのである。
そう考えると、その流れでこのホテルもスムーズに完成出来たのではと読み解けるであろうし、経営もそれなりに順調だったと予想できまいだろうか…?
ただし…
我が国がこの流れで推移していれば問題は無かったのだけれど、後に戦時体制に入ったことと、元々富裕層向けに営業されたことが災いして、昭和19年に閉館を余儀なくされ…
直後に、海軍に病院として接収され…
戦後は GHQに接収 されたため、彼らのやりたい放題にされた悲しい時代が続いたらしい…?
もちろん、本来ならこれがが撤収した後に営業する判断も出来ただろうが…
戦後の食うや食わずの時代背景では難しく、いずれは壊される運命だったのかも知れない…?
ただ、是非とも後世に残すべく貴重な建築物として挙手し、後に自らの資金で手直しを施された、 武庫川女子大学 の経営陣に賞賛の拍手を贈らせていただこう!
先人らの賢明な判断と英断あったらこそ、私達は今も当時を偲ぶことが出来ることに、心の底から感謝しなければならない!
私が生まれるはるか昔の激動の時代に産声をあげた、類まれなるこのホテルは…
華やかな時期は薄命なるも…
悲しい時代に翻弄されながらも…
現世に生き続けている…
眼前に広がる見事な造形と品格の全ては、それがCGや模造品では無く、今も脈々と生き続けている往時の「甲子園ホテル」そのものなのである!
この稿おわり