前回の続きである。

 

大阪府堺市を通る 泉北1号線という道路は、なぜ無駄に広いのか?、という疑問を解明していくうち、思わぬ紆余曲折や歴史を発見できたのは大きな収穫であったが…?

 

前回の記事にあるように→

 

 

 

 

元々は泉北ニュータウンのメインアクセスを国鉄に依頼し、阪和線の上野芝駅から分岐して鉄道を建設してもらう計画があって、その両側に平行して建設されたのが 泉北1号線 でした。

 

      

 

ただ、泉北1号線の真ん中に鉄道用地を確保したたものの、結局は国鉄と合意に至らなかったため、今でも 上野芝~深井 の間に広大な空地が残っているのでした。

 

 

 

 

で、結局のところは 泉北高速鉄道 が中百舌鳥から分岐して現在に至るのだけれど、宙に浮いたこの空スペースを、再び活用しようという動きがあったのをご存知だろうか?

 

 

 

 

大阪の二大ニュータウンでもある 千里と泉北 は、前者が大阪万博という国家プロジェクトの当地であっことから、インフラが最優先で整備されたため、そのアクセス性はバツグンであった。

 

すなわち、 地下鉄と新御堂筋 という最強のインフラがあるので、至極便利なのだ!

 

 

 

片や泉北ニュータウンと言えば、鉄道でも難波まで30分近くかかっていて、他方、道路はと言うと泉北1号線だけは広いものの、その先から都心部へのルートは、脆弱なままであった。

 

そこで、大阪万博が開催された昭和45年、当時の阪神高速道路を、 泉北ニュータウンまで伸ばせないか? という答申が盛り込まれたのだ!

 

 

 

国民所得が倍増した高度経済成長期に入ると、一家に一台という マイカーブーム を引き起こし、ニュータウンに住んで車を所有することは、一種の憧れのようなライフスタイルでもあった。

 

 

 

なので、ニュータウンを高速道路で繋ぐことができたのならば、より一層入居者が増えると踏んだのかも知れない?

 

 

 

加えて、更に通行台数が増えるであろう阪神高速道路も、それに追いつけるように延伸を計画していて、そのひとつが 第二環状線 の計画であった。

 

 

 

実は、昭和30年代の答申では、現在の森小路から城北運河を南下し、津守へ至るルートが模索されていたが…?

 

(※その名残で、森小路から先へ分岐させる橋脚が今も残っている。)

 

 

 

 

昭和45年には、このような将来像が答申されていた。

 

 

要は、現在のJR大阪環状線の少し外側に、高速道路の外側第二環状線をつくろうとしていたのである。

 

 

 

で、その南の下の部分に「美章園ジャンクション」を設け、そこから 阪神高速泉北線を分岐 させる計画であった。

 

 

 

※地図2点は、高速なページ記事より引用させていただきました。

 

 

 

さて、答申から具体的に着工するまでの時間はかかってしまったが、美章園から分岐した高速道路は、 阪和線の高架工事 と併せて着工されていく予定であった…。

 

 

 

 

で、計画はこうだ!

 

都心部での土地確保が困難なこともあって、下が阪和線、上が高速道路という3階高架で着工し…

 

 

 

 

 

 

大和川を渡ると阪和線と離れて南下し…

 

堺市黒土町辺りで 中央環状線 と交差し…

 

陵南中学校付近から左折し…

 

泉北1号線の真ん中(国鉄予定線)を通り…

 

 

現在の阪和道との交差付近に、出入り口を設ける計画であった。

 

 

 

これだと、都心部への道路アクセスが格段に向上するだけでなく、更に栂・美木多~光明池以南へ伸びようとしていたニュータウン計画も、加速されるのではないかと踏んだのかも知れない…?

 

 

 

がしかし、美章園~南田辺、長居~我孫子町間の用地の買収が始まっていたものの、後に発生した阪神淡路大震災で、阪神高速神戸線の高架が倒壊した現実があって、3階高架だと更にその危険性が増すとして。道路部分が白紙に戻されてしまった。

 

 

現在も残る美章園付近の 阪神高速泉北線 の予定地は空地のままで、結局JRの高架だけが単独で完成し…

 

後にその一部でも活用するために、深井駅前のオーバーパスが完成しているけれど、本来はこの部分からスルーで高速道路に入れるはずであった。

 

 

 

なので、もう鉄道も高速道路も走らなくなってしまった、泉北1号線の上野芝~深井間の広大な空地は、今も全く活用の目処すらたたないまま、その名残を現在に伝えているのである。

 

この稿、おわり