昨日、開業してわずか12年という短さで、 北花田阪急百貨店 が閉店しました。

 

我が家がここより徒歩圏にあって、私は週末などにはよく利用していたし、近隣の方々も口を揃えて、せめて「食品売り場」だけでも残してほしいという願望があったにも関わらず、売上げの減少が続いていたらしい…?

 

 

そして、昨日たまたま閉店時間を過ぎた20時半頃に、帰宅と重なったので前を通ってみると、まだ営業していたが…

(閉店は20時)

 

 

 

ちなみに、一昨日は閉店放送を流さず、自然に客が退店するのを待っていたらしいが、さすがに最終日だった昨日は人出が多すぎたことと、帰ろうとしない客が多かったために、半ば強引に照明を減光して閉店したらしい…?

 

 

 

(イメージ)

 

まあ、我々庶民が鼻くそほどの売上げに貢献したところで微々たるものすらならず、以前の記事に書いたように、イオン鉄砲町とアリオ松原(建設中)に挟まれた商圏では、将来性が見込めなかったという結果なのかも知れない…?

 

以前の記事 → http://ameblo.jp/dmh17c/entry-12185379616.html

 

 

 

それにしても、都心部の百貨店はまずまずなのに、こと郊外店となると撤退が著しく、これは客の購買意欲の変化もさることながら、大型SC(ショッピングセンター)の出店攻勢が、その息の根を止めたと言っても過言ではないであろう…?

 

そして、この閉店の少し前の時期から、これまた自転車(チャリンコ)圏内にある 高島屋堺東店 のチラシが多く入るようになってきたが、そもそも自転車で20分以上かけて出掛けるのなら、地下鉄で10分ほどの アベキン(近鉄百貨店 阿倍野店)の方が規模が大きいので、前者の客数は変わらないと断言できよう!

 

 

 

 

ところで、我らが堺市に現存する百貨店は、堺東と泉ヶ丘にある高島屋だけになってしまったが、実は過去に もうひとつ百貨店が誕生する計画 があったのをご存知だろうか?

 

 

 

泉北ニュータウンの玄関口でもある 中百舌鳥(なかもず)駅 は、元々は南海単独の駅だったけれど、昭和50年代に入ると 地下鉄御堂筋線 が乗り入れてくることが分かった!

 

 

そうなるとアクセスが格段に良くなるので、昭和57年に大阪府と堺市が、この駅前に 副都心 をつくる計画を発表したんですね…。

 

 

 

 

すなわち、堺市の玄関口で官庁関係も集中する 堺東 が手狭になり、もっぱら全国的にも「首都移転」や分散が論議される時代であったため、当時はまだまだ未開発であった中百舌鳥駅前にその機能を分散し、併せて核となる百貨店を誘致しようというものであった。

 

 

 

そして、それに食指を動かしたのが、当時の 阪急 西武 そごう の3社であって、すったもんだの末に、「そごう」が建設されることになったのだが、今回の北花田店以前に、当時阪急が南進を模索していたという事実にも注目したい。

 

(南海は当時西武と蜜月にあって、なんばCITYなどの施設は西武の知恵が入って建設されたため、西武の誘致には南海の意向が加味されたと推測できる。)

 

 

 

 

 

ところで、古くから「中百舌鳥駅」を利用されている方ならお分かりでしょうが、今から20年以上前の駅北側一帯は、草ぼうぼうの広大な空地が広がっいて、その一角に そごう建設予定地 の看板が建っていましたよね!

 

 

 

そして、断定は出来ないけれど、地下鉄中百舌鳥駅のB2階から地上まで現在スルーで到達できるけれど、途中のB1階にも出入口のような区画があって、もしかするとこれが そごう百貨店への連絡通路計画の跡 だったような気がしてなりません…?

 

 

 

 

ただ、ご承知のように以降の「そごう」本体の経営が芳しくなく、後に計画そのものが破綻していまったけれど、もしも順調に進んでいたのなら、 そごう中百舌鳥店 が堂々と完成していたでしょう!

 

 

 

 

ただ…?

 

もしも「そごう」が営業していたとしても、郊外店が苦戦する今日の状況からして、今日を待つまでもなく早晩に閉店していたのかも知れませんね…?