現在、弊社の作業場は大阪府松原市にあり、今の私は堺市の住民だけれど幼少から30歳位までは 岸和田 という地で育った。
で、今でも兄弟らは岸和田市に在住しているので時々訪問するけれど、先日はついでの時間を割いて「駅前商店街」をそぞろ歩きしてきましたのでリポートしてみようと思います。
ただ…
大阪南部にあって古くから城下町として栄えた地であり、南海電車の特急も停車する大きな街だけれど、御多分に漏れずここも シャッター通り と化して久しいのだ!
ところで、 昔の岸和田商店街 と検索すれば、色んな画像などが出てくるけれど…
だったら 当時はどの場所にどんな店があったのか? と言う記述は無いに等しいのです!
(アーケードの無い、昭和30年頃の商店街?)
なので、今日の「商店街」を実際に歩きながら、私が小学生だった 昭和50年頃の岸和田駅前商店街 を回想しつつ、誠に狭義の話題になるけれど、当時存在していたお店のことなどを細かく後世に伝えようと思う。
まず、今は高架化されたことで当時を偲ぶことすらできないけれど、地平時代にあった駅舎は西側1箇所しか無く、ホームに入る入口と出口が別々にあって、向かって右側にあった出口の前に、半ロータリーの タクシー専用のりば があった。
ただ、ここは南海タクシー専用だったと思うけれど、傍らの路上では岸和田交通タクシー(通称/岸交)や金星タクシーが客待ちをしていて、当時は2kmまで140円の時代でした。
次に、駅舎の左側には駅裏への陸橋を挟んで 南海バス ののりばがありまして、当駅発のバス路線は全てここ一箇所に集約されていました。
※2024年追記/駅東側に移設直前の旧バスのりば
そして、現在のその場所の様子がこちらである。
あと、当時は昔の みどりの南海バス しか走っていなかったけれど、昭和40年代後半までは「ツーマンバス」が現役であって、岸和田 市内循環右回り・左回り という行路が存在していた。
で、一部過去の記事とダブルけれど、当時も今もバス停前にあるのが カメラのコロナ というお店で、私もカメラを所有しはじめた頃には、ずいぶんとお世話になったお店である。
さて、いよいよアーケードに入ることにしよう!
こちらは岸和田市民なら誰でも知っていて、商店街の一等地でもあり、もちろん現役で盛業されている 木下書店 であり…
その向いにあるのが、これまた当時のまんま今も盛業されているのかどうなのか?
シャッターは閉じられているけれど、誰もが知る 喫茶フジヤ である。
横に細い路地があって、そこから厨房が丸見えだったけれど、当時としては珍しいデミグラソースの匂いが、換気扇から流れていて、わざとゆっくり歩いたものだった…(笑)
そして、今は面影すら無いけれど、その隣には オオキタレコード というお店があって、鰻の寝床のような細長い店だったけれど、言わば当時の若者の聖地のようなお店であって、商店街の入口という利点を生かし、ヒットソングをガンガン流していた!
それと、少し脱線するけれど、当時の岸和田には オオキタ という屋号のお店が多く、ひょっとして一族かも知れないけれど、この「レコード屋の他に…
「時計のオオキタ」
「カメラのオオキタ」があったけれど、当時の南一番踏切脇にあったカメラ屋は、とっくに廃業していた…。
さて、商店街を更に西に進むと おもちゃ屋 があって、今は屋号が変わっているけれど…?
しかし、経営者は同じのようであるが、こちらが当時は おもちゃのポニー という屋号であって、高齢の店主にあれこれ問うてみたけれど、どうも会話がかみ合わないので早々と退散してしまった…。
で、この路地を入ると「岸和田スポーツ」と言う通称 キシスポ が健在であり、当時流行だった アディダスの
スポーツバック をここで買い求めた記憶が蘇る…。
他に路地には数件のお好み焼き屋と、貸しレコード屋もありましたね(笑)
そして、おもちゃ屋の隣は当時は「一膳めしや」があって、その向かいには いづみ と言う和食のお店があった。
商店街の中では少し高級な部類に入るお店で、特にここの玉子丼は特段に美味しかったと記憶しているが、後に火災を起こして廃業し、現在も空き店舗のままである。
(いづみの玉子丼イメージ)
そして、今はセブンイレブンになっているが、ここが当時の岸和田商店街の雄でもあった ニチイ岸和田店 の跡である。
狭い敷地だったにも関わらず、地下にはレストラン街と最上階にはゲームセンターとイベントホールがあって、当時は何でも揃うパラダイスのような施設であり、休日にここへ連れて来てもらうことが唯一無二の楽しみであり、敷地の周辺には自転車が溢れかえり、通行することすら困難でもあった。
更に進みアーケードの中ほどまで進むと、 甘党 とらやき というお店が当時はあって、要は関東の回転焼と言うか、関西の御座候と言うか…?
要は、中味は似たようなものだけれど「虎の焼印」が捺してあって、当時の岸和田市民は、この食べ物イコール とらやき であった。
と言うことで、当時を知らない方や岸和田以外に在住の方なら全く理解すら出来ない記事だけれど、しばしお付き合いいただければ光栄である…。
※このシリーズは、このブログのカテゴリー欄にある 「昭和50年頃の岸和田」 に分類して随時投稿してまいります。
つづく