かつて、私が勤めていた「国鉄」という組織の中で体験したことを綴るシリーズで、今回は車掌時代の 車内改札 の思い出を書いてみようと思う。

 

最近は、プリペイドカードの発達によって、あまり見る機会が少なくなってしまったけれど、昔はよく電車に乗っていると 切符を拝見します~ と、車掌さんが車内を巡回していたことをご存知の方も多いと思うのですが、これを一般には「検札」と言い、国鉄内部では「車内改札」と言って、単に車内を巡回することもこれに含まれていたと記憶しています。

 

 

ただ、私の所属していた京橋車掌区は、主に大阪環状線や片町線(今の学研都市線)の乗務が大半でしたので、駅と駅の間が短いこともあって、その多くが積極的に客室に入ることすらしなかったと言うか、出来る状態では無かったのですが…?

 

私個人的には日中に限って、比較的駅間が長い 弁天町~大正 や 河内磐船~津田 で、巡回がてら「切符を拝見します~」と車内改札をしていました。

 

 

 

 

そして、このように切符を拝見すると、その裏面にスタンプを捺したり、はたまた赤鉛筆でチェックを入れるのですが、これを隠語で 握る と表現していました。

 

 

 

 

まあ、区間が区間だけに実際は全くと言って良いほど切符は売れませんでしたが、普段は絶対と言って良いほど車掌が回ってこない区間でしたから、驚かれる方も多かった反面、中には「国鉄も、もっと早くからこうしていれば潰れなかったのにな…」とおっしゃる方も居ましたね…(笑)

 

 

 

 

さて、当時の私は京橋車掌区でも一番下っ端に位置していましたが、その下っ端でもごく稀に 奈良行き快速 に乗務する行路がありました。

 

 

当時は片町線(今の学研都市線)も全て各駅停車でしたので、駅を通過する快速 に乗るということ自体がステータスのようでしたし、大阪環状線を一周すれば、天王寺を出ると次は王寺まで 20分ほど停まらない んです。

(当時は久宝寺は通過でした。)

 

 

 

 

ですから、やってもやらなくても給料は変わらなかったのですが、少しでも国鉄の借金が減るのならと、私は天王寺を出ると 水を得た魚 のごとく、車内改札へ出向いて切符を売りまくりましたね!

 

 

 

おまけに、当時は キセル と言って、乗車駅で最低区間の切符を買い、降車駅で定期券などで降りる輩(やから)も居て、実際に切符を拝見すると 天王寺から120円区間 しか持ってない者も多く、少なくとも次の停車駅の王寺までの差額運賃を頂戴しました。

 

 

 

 

※両端だけ金だから、このような乗車方法をキセルと言う。

 

 

 

しかし、中には悪知恵の働く者も居て、いきなり10000円札を出すんですね…?

 

実は、車掌の つり銭などは全て自前 でしたので、その多くは小銭しか用意していなかったため、10000円を出されると切符が売れないので、仕方なく降りる駅で精算してくださいと告げるのですが、元々キセルが目的なのでそんなことはしない…。

 

ですから、それを逆手にとって、私は快速に乗務する時は準備万端で、少なくても1000円札で50000円ほどつり銭を用意していました…(笑)

 

 

 

 

 

ところで余談なのですが、当時の国鉄は悪しき労使関係が逆転し、当局が絶大な権力を掴みつつあったものの、どうしたことか 経費削減に躍起 になっていました。

 

ですから、今では信じられないかも知れませんが、当時の日中の「奈良行き快速」電車は大阪と天王寺と河内堅上~三郷のトンネル区間以外は 車内照明をOFFにしなさい! と決められていたのです。

 

 

 

 

で、それを監視して車掌の点数をつけるために、奈良行きの快速電車が通過する柏原駅のホームには係員が居て、車内の照明がOFFになっているかをチェックしていたのです。

 

じゃあ、どうしてチェックするのかと言うと、今は知らないけれど当時の電車は車内照明をONにすると、それと連動して尾灯が点灯するので、奴らはそれをチェックしていたのです!

 

 

まあ、私はちゃんと守っていましたよ…(笑)

 

 

 

 

ただ、あまりに切符を売ることに躍起になっていましたので、車内照明のスイッチがOFFのまま、電車は知らぬ間に河内堅上を過ぎてトンネルへと…(汗)

 

 

何度か真っ暗のままトンネルを通過しましたが、もし過去にそんな体験をされた方がいらっしゃれば、恐らく私が乗務していた電車ですので、この場を借りてお詫び申し上げます…。

 

 

 

さて、前述のように「京橋車掌区」は、いわゆる特急などの優等列車を持っていなかったので、年配になっても万年大阪環状線などの乗務しか無かったのですが、当時は唯一日中の 新快速1本だけの行路 があったのです。

 

先輩方に聞くと、昔あった 大阪~岡山行きの快速 は、京橋車掌区伝統のトップ行路で、私が居た下っ端の4組から3組、2組と上がった1組のトップしか乗務できない列車でしたが、それが廃止された救済策として、この行路が当時はありました。

 

 

もちろん、下っ端の私などは、本務車掌としては乗務できませんてしたが、 特改要員 すなわち「車内改札要員」として、一度だけ乗務するチャンスに恵まれたことがありました!

 

 

 

天下の大動脈東海道本線に乗務できる喜びから、前夜は眠れませんでしたが、当時の京都駅近鉄連絡口には近鉄の改札しか無かったので、いわゆる国鉄の切符を持たない 無札 が多く居ましたので、これまた切符を売って売って売りまくりましたよ!

 

 

ただ、今と違って電算の無い時代でしたので、お客さんの目的地までの運賃を「早見表」で調べ、即座にパチパチとハサミを入れていくんですが、これが時間との戦いでもあって、より早くより正確にが求められていました。

 

それと、揺れる車内で車内補充券にパチパチと穴を開けていると、何だか機関銃を連射しているかのごとく、快感を通り越して快楽の世界に入ってしまうのです…?

 

 

 

おかげで、必死で売って売って売りまくったので、同期の車掌の中ではダントツトップで車内補充券を売ったのですが、その反面嫌がらせもされる組織でしたね…(笑)

 

 

 

 

さて、新快速の特改要員として乗務していたのは、大阪~京都~大阪~姫路~大阪でしたが、帰路の明石を過ぎて垂水を過ぎると、今も変わらず車窓に穏やかな海原が見えるんですが…?

 

 

車掌室からよくよく目を凝らしてみると、激しく水しぶきを上げながら滑走するように進む一隻の船が目に入りました!

 

はて?  幻か蜃気楼か…?

 

 

 

 

いやいや、よく見てみますと就航間もないジェットフォイルという超高速船で、大阪天保山~高松港を一直線で2時間弱で結ぶ ジェットライン という航路でした。

 

 

当時は瀬戸大橋が完成しておらず、国鉄ですと岡山と宇野で乗り換えて、同区間に3時間を要していましたから、ある意味脅威を感じましたね。

 

それにしても速かったですよ!

 

ほぼ、新快速と併走していた姿が、昨日のことのように脳裏に焼きついています。

 

つづく