長崎県にある島原半島の南端付近に 原城 というところがあって、今は草生した丘陵地になっている。
そして、ここを舞台として繰り広げられたのが、かの「島原の乱」である。
キリスト教が広がるのを恐れた時の江戸幕府は、キリシタンの弾圧に乗り出すのだが、それを阻止しようと決起した 天草四郎 率いる集団が、時の「原城」に籠城(ろうじょう)して戦ったのだ!
しかし、籠城して頑固に戦う彼らに比して、幕府軍が何度も突破を試みるが、最後に採った戦法は 兵糧攻め であった。
つまり、城の周りを完全に包囲し、物資や援軍を阻止することで戦力が衰えさせ、そこを一気に叩くというものであり、結果は火を見るよりも明らかであった…。
さて、昨日の続きである。
(昨日のブログ http://ameblo.jp/dmh17c/entry-11959353673.html )
もはや絶頂期にあり、誰もが彼らの進む道を閉ざすことができなかった状況をして、次にダイエーが欲した業態は 百貨店 であった。
そして、業務提携という形でターゲットに絞ったのは、他ならぬ「高島屋」であった。
しかし、それは決して和やかなものではなかった…
以下は、ある方の証言に基づくもので、多少事実とは異なるかも知れないけれど、まずダイエーが採った戦術は 株の買占め であった。
つまり、高島屋の株を大量に買うことで発言権を強め、あわよくば合併を試みるというものであったが、さすがの高島屋も、これには拒否反応をおこしてしまう。
正攻法… いや! 正面突破は失敗に終わってしまったのだ!
ならばと、ダイエーが次に採った戦術は、半ば強引なものであった。
つまり、わざと高島屋の店舗の前に大型店舗を建設し、客を根こそぎ奪うというものであり、その第一陣が ジョルノ専門店街 であって、高島屋堺東店の真ん前で華やかにOPENしたのは1981年であった。
さすがにこうなっては、高島屋もジリ貧である…
けれども、外堀はどんどん埋まっていく!
そして、勢いにのって攻め続けるダイエーは、更に プランタン というフランスの百貨店と提携し、高島屋の旗艦でもある大阪店の近くに、 プランタンなんば という百貨店を建設し、一気に本丸を落城させようと試みたのだ!
そう! 兵糧攻め に打って出たのである。
もともと、高島屋に近いところにあった 千日デパート の跡地は、火災事故の影響で永らく閉鎖されていたが、ここを大改装して ダイエー系の百貨店 として1984年にOPENすることになった!
(現在は、ビックカメラとして盛業している)
さて、正に一進一退の攻防が続く中にあって、力の大きさから言えば、誰もがダイエーの勝利と予想したのだけれど、ここで「高島屋」に救世主が現れる…?
それは、時の 三和銀行 が、再び株を買い戻すという戦術に打って出たのだ!
ややや、やばいぞ!
長期戦になっては旗色が悪いと判断したダイエーは、後に提携を解消する。
つまり、百貨店の構想が敗れ 王者が顔にドロを塗られた瞬間であって、完全に敗北が決定したのだ!
そして、その恩返しから来ているのかは不明だけれど、永らく高島屋大阪店の一階入口左横の一等場所には三和銀行が鎮座していて、今はそれがUSJ銀行に引き継がれていると聞く…
そして時代は変わり、ネットが一般化すると、その流れは一段と加速して行った…
しかし、超ワンマン経営でもあったダイエーは、その巨大な組織ゆえに時代の流れに付いて行けないばかりか、例え社長の戦術が間違っていたとしても、社長にええ顔をするYESマン だけを残してしまった。
結果は、一気に衰退の道を転がって行くのに、さほどの時間はかからなかった。
そして、今度は逆に力の大きな 「イオングループ」に吸収され、あと数年で ダイエー という名が完全に消滅してしまう末路が待っているだけであった。
この稿 おわり