先日のブログで、「自分のルーツを探る」と題して、父の誕生した地を探してみたのですが、先日再び現地を訪問しました。(前回のブログ →こちら )
最寄駅である 野田阪神 から、徒歩で現地を訪ねます…
現在判明しているのは、伯母(おば)が大切に保管してあった へその緒 の箱だけでした。
ただ、ここに当時の地番などが記されているものの、戦時中と昭和50年代に 地番改正 があって、当時の住所が現在のどの辺りになるのかが不明でした。
もちろん、現在の福島区と西淀川区の区役所に訪ねましたが、当時の資料が無いとの理由で不明でしたし、法務局に至ってはコチラの話が終わる前に電話を切る有様でした。
ですから、人伝いに聞き込みをするしか方法がありません。
そこで、まず ↓ の産婆さんの住所を探してみました。
大阪市西淀川区(現在は福島区)海老江中1-8
国道筋中程 阪神キネマ 向側
電話 土佐堀四〇四番(呼出)
前田はるゑ とあります。
手がかりとなるのは 阪神キネマ という映画館です。
あらかじめ、野田阪神駅前の古いお店で訪ねますと、「海老江中交差点の付近にあった…?」というお話しでしたので、早速移動開始です。
国道に路面電車(阪神国道線)が走っていた頃に、 海老江中2丁目 という停留所があった場所の、現在の様子です。(海老江西小学校の前/その先が淀川)
停留所があったということは、そこそこ賑やかな地区が周辺にあったはずで、だとしたら映画館もあったはず…? と、予想しながら聞き込みを開始します。
高齢の通行人はもとより、高野寺の住職さん → セブンイレブンのオーナーさん → ふじや書店のオーナーさん…
「あの人なら、知ってるんとちゃうかな?」 と、次々と紹介していただき、様々な人のツテを数珠のごとく繋げることでおよその場所が判明すると同時に、その場所に産婆さんが居たことを知る人物まで現れました。
かつて、 阪神キネマ があった現在の場所が判明しました。
白い建物の裏側にある駐車場一帯がその場所であって、 阪神松竹 という通称名で通っていたそうです。
さて、産婆さんの場所が判明すれば、戦前のことですので、ここから徒歩圏に必ず「生誕の地」があるはずです!
実は、PCの質問コーナーに投書した御縁で、昭和30年代の古い周辺の地図を入手できましたので、それを基に聞き込みを再開します…
地番は、上の写真の ↓ 部分に 大阪市西淀川区海老江中3丁目37 とあります。
しかし、はたして昭和30年の地図と昭和12年では地番が違うかも知れませんし、住宅街であることが災いして、通行人が皆無であったため聞き込みはできませんでした…
それでも、くだんの場所に到着しました。
空襲の被害を受けていないためか、戦前の建物が少なからず残っていますが、この辺りでしょうか…?
昭和12年頃に、この地の二階建ての 借家の一階でせんべい屋 を営んでいた両親の間に、その長男として父が誕生します…
内心… 忸怩(じくじ)る思いだけが残りましたが、これが個人で調べる限界でしょう。
しかし、改めて思うことは、先の大戦があったことで家族がバラバラに離散してしまいました…
そう考えると、戦争は決して良くないことだし二度と起こってはならないけれど、 もし戦争が無かったら ひょっとして私の父と母は巡り合わず 、だとしたら私はこの世に存在していません…?
だから、戦争という歴史の事実を踏まえ、その上に私達が生かされているということ…
それだけは、紛れもない事実であると痛感した瞬間でした。