弊社の前の道は「府道 大阪狭山線」という。


これを北上すると、長居公園の東側を抜けて行き止まりになっているが、計画では国道25号線を越えて「市道 上新庄生野線」と繋がるようである。


そして、その生野区から先の道路を、地元では通称 疎開(そかい)道路 と呼んでいる。






疎開道路…


???


実は、付近に住む同世代の職人さんに聞いてみると、「戦時中にこの道を歩いて疎開したから…」だと言うが、はたしてそうだろうか?








現在の「疎開道路」である。





私も抜け道としてよく利用するのだが、道路幅がそこそこ広くて市バスも走っている。


そして経路は、大阪環状線の桃谷~京橋とほぼ平行している。






ところが、先日はたまたま遅く出勤したので自宅でテレビを観ていると、NHKドラマ「ごちそうさん」が放映されていて、ちょうど 建物疎開 のシーンが流れていた!






そう!

昭和19年までは、サイパン島は日本の領土であり、彩帆島という地名であった…


しかし、サイパン島が敵に奪われ、ここを基地として長距離爆撃機「B29」を用いれば、日本本土のほぼ全てを空襲(爆撃)することが可能になるため、我が国はこれを 絶対国防圏 と定め、何が何でも死守するために戦に挑んだ…






しかし、ボロ負け…


そこで昭和20年以降は、木造住宅が密集する都市部が頻繁に空襲される恐れがあるため、万一爆弾による大火災が発生した場合、できるだけ延焼を食い止める目的から、 広大な帯の空地が必要 となってきたのだ!







つまり、その空地を確保するため、義理人情を無視して有無を言わさず強制的に住宅を取り壊したのが 建物の強制疎開 である。


なので、人が疎開するために歩いた道が「疎開道路」では無くって、大阪市内の火災の延焼を食い止めるために、無理やり摂取された空地であって、それを現在は道路として活用していに過ぎないのである。






もちろん、これはドラマのワンシーンでも登場するのだが、綱引きのように人力で建物を崩壊させる手法で、次々と空地を広げていった…


もちろん、「神州不滅」と我が国の勝利を信じ、泣く泣くこれに応じた人達も多いと思うが、はたしてそれは本心だったのだろうか?


いや!

長年家族のいろんな思い出を培ってきた自宅を壊される心情は、現世を生きる私が想像する以上に耐えがたかったに違いあるまい!






その後、地域での防火訓練も頻繁に行われ、建物疎開も完了したため、 「空襲は恐るるにあらず」 と豪語していた軍部でしたが…?


木造の日本家屋を焼き払うために開発された 焼夷弾 の前には、全く歯が立ちませんでした。

(映画/火垂の墓のオープニングの空襲シーンが焼夷弾爆撃です。)





政府と軍部の決断がもう少し早ければ…


負けを認めて降参していれば…





救えた命や、救えたモノがもっと沢山あったと思うのです…?