皆様もご承知のように、台湾の不法上陸に対向すべく、日本の地方議員達が「尖閣諸島」に上陸しました。
まあ、わが国固有の領土ですから何ら問題はなく、むしろ歓迎すべき行為なのですが、ここでちょっと待ったぁ~!
彼らは、そもそも上陸以前に「疎開船沈没の慰霊」に向かう… という建前があったはずだが、これはきっちりと実行されたのでしょうか?
1944年7月。 絶対国防圏といわれた「サイパン」が陥落し、次は沖縄本土と周辺諸島へ上陸すると予想した日本軍は、島内の子供や婦女子や老人を、安全な本土に8万人、台湾(当時は日本の統治下にあった)に2万人を疎開させる計画をたてました。
当然、飛行機などなく、貨物船に詰め込み状態で運ばれるのですが、当時は石垣島の住民が台湾への疎開を開始したものの、焼き玉エンジン(ポンポン船)を積んだ小さな輸送船2隻に200人以上が詰め込まれました。
そして、1945年7月。 足の遅い輸送船はアメリカ軍の爆撃機に発見されてボコボコに…
ほとんどが亡くなられましたが、何人かが尖閣諸島に泳ぎ着いて助かったとあり、これがこの「疎開船沈没」のことだと私は思うのです。
また、時を前後した66年前…
「対馬丸」には、疎開する小学校低学年800人余りと、婦女子や老人など合わせて1600人が乗船し、1944年8月21日の夕刻に沖縄を出航しています。
月夜の海原を静々と歩みますが、これまた足が遅いため護衛する軍艦から離れたところを、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、一瞬にして沈没してしまいました。
図らずも、これからの日本を背負って立つ若い命を無残にも沈めただけでなく、深夜の海原に放り出された泳げない子供達はさぞかし恐怖におののき、苦しく、無念だったに違いありません。
ですから、これらの歴史を念頭に熟知し、全身全霊で御霊(みたま)の供養に訪れたついでに、上陸したのなら私は何も申しません!
もちろんたくさんのお花、お水、そして幼い子供達にはありったけのジュースにお菓子… 彼らは、きっと船上から海原に献上されたはずですよね!
もし、台湾に対抗する単なるパフォーマンスであれば、「疎開船」などと都合の良いことを、決して口にしてはならないと思うのです。