ここのところ、看板の仕事がありませんので、しばし脱線させていただいて今日は「餃子の王将」について記してみたいと思います。


と、申しますのも、今朝の朝刊に45周年の広告がありましたね。


と言うことは、世に言う「高度経済成長期」に産声をあげたことになりますが、その波に乗って一気に飛躍したのか? と思えば案外そうでもなく、したたかな戦術と戦略の上に、今日の姿があると思うのです。


さて、現在は誰もが知る「王将」の看板。

赤+黄+緑の原色を使い、デザイン的には見るべきものはありませんが、遠くからでも視界に優れる良い表記にまとめられている印象です。


大阪 堺・松原の看板屋 スマイルサイン奮戦記-王将看板

さて、ここからが本題。


創業から10年が過ぎた昭和50年の半ば、世間では繁華街の個人が経営する飲食店に代わり、ファミリーレストランが乱立しはじめました。


これは、先の大阪万博で、大量に同じ料理を作る「セントラルキッチン方式」を採用(試用)したロイヤルホストが成功をおさめたことから、大手資本がこぞってこの業界に参入したためですが、逆にこのことが、次第に外食することを日常的にしたとも考えられます。


ただ、恐らくこの頃の「王将」の店舗数は少なかったはずで、ガチでこれらと戦う体力は無かったと思うのです。 そこで、彼らの採った戦略は、当時学生だった私達をターゲットに絞り、ファンにする作戦に打って出ました。


つまり、私が通学していた「浪速高校」の正門前には、よくスーツを着た王将の社員が、「餃子無料券」を配布していました。 


実は、それまで私達が食べ親しんできた餃子は、スーパーで売っている「ミンミンのせみ餃子」でしたので、帰宅途中に唯一存在していた、三国ヶ丘の王将(←現在のパチンコごえもんの所)で食べた餃子のおいしさは、初めて食べたカレーライスや生クリームのケーキに匹敵するほど大きな感動を与え、胸に深く刻まれることとなりました。


そして、「ここの餃子は、ななななんと…美味しいのだろう!」という感動の外にも、それまでの繁華街の飲食店にもない、ファミリーレストランにもない、独創とも言える店づくりがありました。 


それは…
大阪 堺・松原の看板屋 スマイルサイン奮戦記-餃子
店舗  FR→大きくて綺麗  王将→小さくて少しきたない(今は綺麗?)


人数  FR→ファミリーやカップル限定  王将→1人でも気兼ねがない


価格  FR→そこそこ割高  王将→とにかく安い


調理  FR→見えない   王将→オープンキッン


店に近づくと  FR→無味無臭  王将→油の匂い(食欲を刺激する)



つまり、安くて、早くて、気軽に入れるお店は当然なのですが、目の前で自分が注文した料理が手際よく調理されていく様がマザマザと見てとれる安心感は、当時としては画期的であり、目、耳、鼻、舌…の感覚と食欲を奮い立たせる演出が絶妙に混ざり合っています。


ですから、当時は新聞広告で大々的にPRする絨毯爆撃のような戦術を採らず、社員ひとりひとりが汗をかき、ピンポイントで金のない学生にあえて無料券を配り続ける判断をしましたが、一度お店へ足を運んでもらえばわかる! と言う自信の表れだったのかも知れませんし、少し敷居の低い店造りが、より「王将」を身近に感じさせる大きなポイントとなったことは、紛れもない事実だと思うのです。


その後、社会人となった昭和57年以降、今ほどではないにせよポツポツと店舗が増えたはじめた時期でしたので、あの感動の味と価格の魅力から、「美味しい餃子の店へ行こう!」と、上司や友人を少し自慢げに誘ったりしましたが、正に倍倍ゲームのごとく口コミでその実力が知れ渡っていきました…。




時は流れて、私達がまもなく50歳を迎える今日において、価格が安く、目の前で調理してくれる安心感。


そして、体内のDNA?に深く記憶されている肉汁ほとばしるアツアツのあの餃子の旨さは、他を寄せ付けない絶大なる信頼がありますから、私も迷わず入店しますし、安心して孫や子の代まで通い続けるでしょう…。



ひるがえって、あの時の判断は一瞬無駄?とも見て取れますが、

「目の前の実ではなく、10年後の実を採る」という戦略を貫き、その上に日々の苦労の積み重ねがあったからこそ、それが今日の「王将」の快進撃に繋がっていると思うのです。



天晴れです!