中学生になった頃、新しく赴任してきた校長が生徒1人ずつの座右の銘を短冊に書いて渡してくれるというイベントがありました。
いま思えば、かなりの大人数であった全校生徒全員の座右の銘を書くなんて大それたことをする校長だったと思います。
わたしが選んだ座右の銘は、
「一寸光陰不可軽」
でした。
朱熹の寓生の一節です。
「一寸の光陰、軽んずべからず」と読みます。
短冊に書いてもらったのを、しばらく机の前に貼っていました。
全文は、次のとおりで確か中学校の生徒手帳に書いてあったのだと思います。いまだにそらんじることができます。
少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声
これをなぜ選んだのか当時12歳の自分が何を考えたのか思い出せないのですが、机の前にこの言葉があったことで繰り返し繰り返し、自分に言い聞かせる言葉となりました。
この言葉が身に染みたのか、染みついたように隙間を空けることなく時間を使えるようになったのだとは思っています。
言葉ってすごい。
繰り返し、繰り返し目の前の言葉を見ることが、ある意味ではその後の自分をつくってきたと言えます。
そして、40年以上が過ぎて、秋声が聞こえる頃になって、やっぱりまだこの言葉に影響されてるのかなと。
働きすぎなのではないかというコメントをいただいて、あれこれ考えました。
何が自分をそこまで追い立てているのかなと。
休もうとした時に、自分を縛るのもこうしたことばなのかも。
ある意味、無謀で傲慢だった頃はひたすら高く深く、時間を惜しまずひたすら走っていられたのですが身体がついてこなくなったと認めないといけないのかもしれません。
休むこと、大事だとはわかるのですが、この休むというのがなかなかに難しい。
言葉というのは呪いなのかもしれませんね。
少しの時間も無駄にするなと言い聞かせてきたそれだけの効果を打ち消すくらいの、また新たな言葉を作らないといけないのかもと思ったりしました。
まとめ
ぐだぐた言う前に、まぁ、寝ろと。
たぶん、それだけ。
