最近、気のおけない人と雑談をしていたときに、
私が、愛という言葉を使ったら、
慈愛とか、性愛とか、限定的なところで、
どうしてもイメージされるらしく。
まあ、それはそうだろうから、
何回か、私が使うところを、ざっくり言いながら、
話してみたのだけれども。
私にとって、愛という言葉は、
思考を超えたところとか、
人智を超えたところとか、
大いなる存在とか、
宇宙とか、
そういうものを、神と呼ぶなら神とか。
そういうほどのところで、
使っていると言ったのだけれども。
やっぱり、誤解は、起きるようで。
そうしたら、その後、
たまたま、
We are in the world but not of it.
というフレーズのカードをネットで目にして。
そうそう、
私の愛の様相は、これこれ、
なんて、思わず、膝を打った。
こんくらいの横文字なら、私にだって、読めるし(笑)。
シンクロって、粋なはからいだなあ、などと、
無駄なことを思いつつ。
まあ、かみ合わないところは、
かみ合わないまま、オーケーで。
私は、愛という言葉の波動というか、波長というか、
そんなものがとても好きなので、
蝶の一羽ばたきくらいの感んじで、
私を通って派生する、
言葉の持つミクロンの波が、宇宙に派生していくのを、
ただ、ただ、楽しもうという感じで、
ただ、愛という言葉を使っていけば、良いのだろうなと。
宇宙に派生していくって、お袈裟か。
でもね、
昔、ちょっとだけ瞑想を習った人が、サイキッカーで、
と言っても、健康相談に応じているだけの、ふつうの市井の人だったけど。
(この人の背景も、超、面白くて、生まれながらの重症の喘息だったそうで。
10代のある日、あることが起きて、それから、変わったそうで。
書くと、めちゃ、長くなるから、割愛するけど。)
その人には、発せられた言葉の持つ波動がどこまでも消えることなく、
宇宙の果てまで、広がり続けるのが、意識していると、見えるのだそうで。
だから、良い言葉を、なるたけ使う方が良いよ、と言っていた。
それでも、よくない言葉が湧いているのに、
それを自分に押し込めて、見かけ上良い言葉を発しても、
ダメなんだけどね。
あることが、あると、認めること、認識してやることが、
愛の始まりだったりもするし。
と、しょうもなく、話があっちゃ、こっちゃしそう。
(はい、ADHD出ましたぁ、という感じ)
なので、話しを戻して。
愛というと、永遠の中に、くつろげる感じがするんだよね。
愛というと、何にもないのに、全てがあるようにも感じるし。
全て、私の感覚でしかないから、
私の感覚では、そんな感じというだけ。
だから、その感覚はその感覚として、楽しめばいいことで、
人と話すときは、場合に応じて、
思考を超えたところとか、
大いなるものとか、宇宙とか、まあ、なんでもいいわけで。
なんか、まとまりがつかなくなると、
描きどめになる、スタイルになりつつあるなあ。
私の、日記。